Yahoo!ニュース

「侵略者の子孫」と言われて――インドネシア社会に残る占領の傷と向き合う、残留日本兵の孫#戦争の記憶

小西晴子ディレクター/プロデューサー

1941年12月8日未明に起きた真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争で、インドネシアを占領した旧日本軍の兵士の中に、敗戦後も現地に残り、インドネシアの独立のために戦った約1000人の日本人がいた。しかし、その後も現地で暮らし続けた「残留日本兵」の子孫は、戦後78年をへたいまでも「侵略者の子孫」という言葉を投げかけられている。日系インドネシア人3世の幸松リマ(34)は、110万のフォロワーを持つインフルエンサーだ。日系であることを理由に学校でいじめを受けた傷を抱えるリマは、自らのアイデンティティーを求め、祖父の体験をたどり始めた。そして、仲間の3世たちと共に作り上げたのが、祖父たちの埋もれた歴史を残す「残留日本兵 歴史資料館」だった。リマが祖父たちの体験を探る中で、見つけたもの。それは、自分たちの傷とインドネシア社会に残る傷を埋めていくために、先ずは対話から始めるというシンプルな答えだった。

日系インドネシア人3世、幸松リマ(34)の葛藤

 2022年8月のある日の夕刻、国立英雄墓地カリバタで、祈りを捧げる女性がいた。幸松リマ(34)。インターネット上でグルメリポートなどを発信し、若者を中心に110万人のフォロワーを誇るインフルエンサーだ。祖父のウスマン幸松崇(こうまつたかし)が、オランダとの独立戦争を戦った英雄として、27人の元日本兵とともにこの墓地に眠っている。

 1942年1月、日本軍は天然資源確保のためインドネシアに侵攻した。当時、インドネシアを植民地としていたオランダは降伏し、代わって日本による3年半の占領が始まる。1945年8月15日に日本が降伏すると、インドネシアは2日後に独立を宣言。ところが、インドネシアを再び植民地にしようとオランダが侵攻してきた。こうして、インドネシアの独立をかけた4年半に及ぶ戦争が始まった。この時、1000人以上の日本兵が部隊から脱走し、オランダとの戦いに参加した。そのうち300人以上が戦後も現地に残り、インドネシア人として生きた。その子孫は5000人とも言われている。リマも、その1人である。

 祖父崇は、リマが生まれる5年前に死去したため、リマには直接の思い出はない。祖母や父から聞いた祖父は、生活に困っている元日本兵をよく助けていたという。4人まで妻を持てるインドネシアで、祖父は祖母のミマ1人と添い遂げた。祖父はなぜインドネシアに残り、独立戦争に参加したのか?戦後、どのように生きたのか?リマは、その人生を探ろうとしていた。それは、自分のアイデンティティーを確かめるためでもあった。

 インドネシアには、初対面の人に出身や民族を聞く習慣がある。リマが日本人の子孫であると答えると、教師や生徒から「いつインドネシアにきたの?どうして、おじいさんは日本の墓でなく、カリバタに眠っているの?」といった質問が続く。その後は、「日本人、侵略者の孫」といじめられるのだ。そのたびに「おじいちゃんは、英雄としてカリバタに眠っている」と反論してきた。しかし、自分は100%インドネシア人でなく、日本人でもなく、他のインドネシア人とは違うという孤独感を、リマはずっと抱えてきた。

インドネシア社会に残る日本占領の傷:子孫たちの葛藤

 2022年8月、リマは日系人たちに会うために、南ジャカルタのテベクにある事務所に向かった。ここは、残留日本兵が相互の連絡や困窮者の生活支援、子女の教育向上を目的に、1979年に設立した互助組織「福祉友の会」の事務所である。

 集まっていた人たちは、自身の体験を次々に語った。4世のヨガ上田(25)は大学でインターンシップをしていた時、「お前は日本人の子孫なのだから、ロームシャより働かなければいけない」と言われた。司書の資格を持つ梅田リナ(32)は、「資料館の仕事をして、また侵略するのか」と聞かれたことがあるという。

 インドネシアの中学、高校の歴史教科書には、「国民は、コメの60%を日本軍と備蓄に供出し、食べ物も薬もなく、多くの人が病気で死んだ。また、労務者として過酷な仕事をさせられた。中部ジャワでは人口の53%が死亡した。日本の植民地になったことは、インドネシア人には大きな災害であった」と書かれている。インドネシア社会には、「侵略者日本軍」というイメージが定着している。特に日本軍の要望によって募集され、鉄道や飛行場、防空壕の建設、石炭鉱山の採掘などで働かされた労務者の悲惨さは語り継がれ、日本軍の過酷な占領政策の象徴になっている。一方、約1000人の日本兵が独立戦争に参加したという事実は、教科書に載っていない。事実として、ほとんど知られていないのだ。

 「日系人の子孫たちは、歴史の授業が終わる度に、いじめられています。日本軍の負の面だけでなく、独立のために戦った祖父たち個人の歴史も知って欲しい」。マリオ黒岩(39)が語るこの思いは、3世、4世共通のものだ。

「残留日本兵 歴史資料館」の設立準備:浮かび上がる祖父たちの苦難の人生

 3世たちを中心に、祖父たちの知られざる歴史を残したいとの思いから、「残留日本兵の歴史資料館」をつくる計画が進められた。「福祉友の会」の事務所の2階を資料館にして、残留兵の遺品や写真、その体験を描いたビデオを展示・上映する計画だ。

 リマは、祖父の資料を探すために「福祉友の会」に顔を出していたが、歴史を後世に伝える大切さを感じ、プロジェクトの中心人物の一人として活動するようになった。資料を調べていくと、祖父の素顔がだんだんとわかってくる。         

 幸松嵩は、1922年福岡生まれ。早稲田大学を卒業後、20歳で召集された。久留米士官学校などで訓練を受けた後の44年8月、インドネシアスマトラ島のパレンバンに派遣され、油田地帯の防衛にあたっていた。

 リマは、祖父がカバンに大切にしまっていたものを見つけた。79年前に出征する時に贈られた千人針と寄せ書きだ。千人針は、出征する兵士の無事を願って多くの女性が赤い糸の縫玉を1枚の布につけたものだ。「虎は千里走って千里を戻る」との言い伝えから、寅年生まれの女性が縫うと、弾が当たらないと言われていた。嵩の母くらが駅に出かけ、干支を聞いては縫ってもらったという。もう一つは、仲間が武運長久を祈って日の丸に書いた寄せ書きだった。

何故脱走し、独立戦争に身を投じたのか?

 日本の戦争は終わったのに、若き日本兵が軍隊を脱走し、インドネシアの独立戦争に身を投じたのは、なぜか?それぞれの理由があった。憲兵として捕虜を虐待し、BC級裁判で死刑になる可能性があった兵士がいた。インドネシア軍や民兵が、オランダとの戦争で必要な武器を奪うために日本軍を襲撃した際、拉致された兵もいた。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と教育され、「占領下の日本に帰国して奴隷のように扱われることに耐えられない」と思い、悩んだ末に脱走した24歳の兵士もいた。

 23歳の幸松嵩が日本軍から脱走したのは、自らの意思だった。リマは、残留日本兵を描いた『脱走日本兵 インドネシア独立戦争の陰に』(奥源蔵著、毎日新聞社)に、祖父のインタビューが残されているのを見つけた。それによると幸松は、1946年1月に復員船で帰国することになっていた。だが、「日本はインドネシアを独立させると約束したが、それができなくなった。このうえは、約束を守るため、独立軍に加わり、オランダと一戦交えよう」と独立戦争に身を投じたという。祖父が自ら書いた経歴書によると、同月にパレンバンの日本軍を脱出し、バンバン・ウトヨ将軍の軍で戦ったとある。

待っていた貧しい生活と無国籍

 1949年12月、インドネシアの独立が国際的に承認された。幸松崇は翌50年10月、27歳で軍隊を除隊。待っていたのは貧しい生活だった。元日本兵たちは、国籍も、在留資格も、仕事もなく、たちまち生活に困窮する。嵩は自動車修理工場を始め、食べるためには何でもやった。すでに独立戦争中に餅屋に勤めていたミマと結婚し、子供もできていた。リマの父である幸松たけしは、53年に生まれた4番目の子供である。インドネシア独立後、嵩の母である幸松くらが、「日本に帰ってきてほしい」と嵩に頼んだことがあった。しかし、返ってきた答えは、こうだった。「私には、インドネシアに家族がいます。日本に帰ることはできません」

 1958年1月、日本とインドネシアの賠償協定が結ばれ、日本の商社がインドネシアに進出した。崇は、丸紅の現地法人で鉄鋼輸出の仕事をするようになっていた。58年8月にはスカルノ大統領から「インドネシア独立殊勲」の証明書と勲章が贈られ、英雄としてカリバタに埋葬される資格を得た。だが、「イ国籍決定書」が発行されたのは63年。国籍のない不安定な生活は、18年も続いた。

「残留日本兵 歴史資料館」のオープンとリマの変化

 インドネシアの日系3世たちは、残留日本兵の家族に連絡をとり、話を聞き、遺品や手記を集め、足跡を追った。十分な資料を残していない家族、戦争体験が2世に十分に伝わっていない家族、連絡が取れない家族もあった。リマは日本語が読めないため、日本人サポーターの力も借りた。母の介護をしているリマは、睡眠時間を削ってこうした作業にあてた。

 2023年7月10日、残留日本兵の歴史資料館がオープンした。元兵士たちの写真、遺品の軍服、英雄勲章、日本刀が展示された。また、兵士たちが毎月手書きで残していた「福祉友の会」月報の抜粋集をインドネシア語に翻訳し、HPに掲載した。祖父らのことが書かれた書籍も展示された。

 5日後に祝賀会が開かれ、和服姿のリマは、受付などで忙しく働いていた。日本政府から金杉憲治駐インドネシア大使、ASEAN日本政府代表部の紀谷昌彦大使も出席。来賓は2世を含め200人以上に上った。久しぶりに顔を合わせた日系インドネシア人たちは、笑顔にあふれ、資料館ができたことを喜んでいた。

 リマは、インドネシア人に資料館を積極的に宣伝しようとは、考えていない。「日本兵の子孫が独立戦争に貢献したとインドネシア人に話しても、事実ではあっても過酷な日本軍の占領を弁護している、自己防衛と言われるかもしれない。中立的な立場で、歴史家が、歴史の事実として伝えたほうがいい」と思っているからだ。一方で、インドネシア人にも知ってもらいたいという葛藤もある。

 祖父の人生をたどり、資料館の設立に携わる中で、リマに変化が起きていた。祖父の人生を自分で確かめたことで、「おとぎ話の中にいたようだった祖父の存在が、確かなもの、現実のもの」としてリマの中に浮かびあがってきたのだ。「祖父を誇りに思う気持ちが強くなった」とリマは言う。それが自信になったのかも知れない。リマは、祖父が独立戦争で戦ったことを、親しい友人たちに自分から話すようになった。すると、こんな反応が返ってくるようになった。「インドネシアの独立を助けてくれたんだ。そういう日本人がいたことを初めて知った。ありがとう」

まずは身の回りの人たちに話すことで、リマは1歩を踏み出した。祖父たちの歴史を、多くのインドネシア人にどう伝えていくか。次なる歩みがこの先にある。

(敬称略)

クレジット

監督・撮影・編集:小西 晴子

プロデューサー: 高橋樹里

制作: ドキュメンタリーアイズ

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】

ディレクター/プロデューサー

ドキュメンタリーアイズ代表。イラク戦争下の市民の10年を描いた「イラク チグリスに浮かぶ平和」(綿井健陽監督 2014公開)他、映画の企画、プロデュースを行う。「赤浜ロックンロール」(監督作 2015公開)では、東日本大震災から立ち上がる漁師町の意地を描く。現在、戦争を体験した父の足跡を検証するドキュメンタリーを制作中。

小西晴子の最近の記事