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適当男・高田純次の邪道の人生から学ぶ「幸運のシッポ」のつかみ方

ボブ内藤編集者、ライター、インタビュアー
撮影/八木虎造

2024年1月、ダイヤモンド社から『最後の適当日記(仮)』を上梓した高田純次さん。読めば、「適当男」の脳内を眺めるかのような臨場感のある、抱腹絶倒の日記文学だ。

そんな高田さんに「挫折からはじまった」という彼の人生の紆余曲折について、話を聞いてみよう。

団塊の世代の一期生として生まれたオレの人生は、挫折からはじまった

日本一の「適当男」のキャッチフレーズでおなじみの高田さんだが、幼いころは意外なことに(失礼!)、「神童」と呼ばれるほど優秀な子だったという。以下は、そのことを確かめたときの本人コメントである。

間違いないね。「神童」といっても、ぶるぶる震えるほうの「振動」とは違うからね。

とにかく明るくて、クラスのみんなを笑わせるような子どもだったみたい。成績も小学校、中学校と、どちらも悪くはなかった。

ところがオレは、1947年、昭和22年生まれでしょ? 団塊の世代の一期生にあたる年で、戦争から生き延びた親世代の人たちが「産めよ殖やせよ」って焚きつけられてセッセと子作りに励んだものだから、競争相手がたくさんいたの。

だからオレはときどき、「団塊の世代」と言おうとして「男根の世代」と間違えて言っちゃうんだ。下品でごめんね。

団塊の世代に生まれて、「神童」と呼ばれるのが、どれだけすごいことかというと、同じ年の人たちの名を挙げてみればよくわかる。

世界の「KITANO」こと北野武さんを筆頭に、俳優の西田敏行さん、泉ピン子さん、歌手の森進一さん、教育評論家の尾木ママこと尾木直樹さん、怪談の名手である稲川淳二さんといった錚々たる面々の名が列なる。

稲川さんとは下の名前も「ジュンジ」で同じだから、オレも怖い話のひとつやふたつはできると思うよ。まぁ、でも、オバケと会ったことは一度もないから無理かもしれないけどね。

要するに、競争相手が多かったから、「神童」だったころを過ぎたら、たちまち追い抜かれちゃったわけ。

高校と大学の受験は、いずれも志望校に入れなくて、挫折しちゃった。大学受験では一浪して再挑戦したんだけど、それでも入れてもらえなかったんだから、三度の挫折だよ。

まったく勉強しなかったわけではないから、結局のところ、紙一重で試験に出ないところばかりを覚えちゃったんだな。オレって、本当に運がないね。

今とは違って、いい大学に進学して、いい会社に就職して出世するのが幸せな人生のレールとして、唯一のコースだった時代。そんな時代にレールからはじかれたショックは大きいよ。オレの曲がりくねった邪道の人生は、そこから始まったと言っても過言ではないね。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

初めてもらった「合格」通知。うれしくて赤飯炊いちゃった

大学進学をあきらめて、御茶ノ水にある東京デザイナー学院のグラフィックデザイナー科に入学した高田さん。ところが当時は「石を投げればイラストレターに当たる」と言われていた時代、ここを卒業しても第一線で活躍できるとは思えず、ぶらぶらとフリーター生活をしていた。

そんな高田さんの醒めた気分をガラリと変えたのは、25歳のとき、演出家の串田和美(かずよし)さん、俳優の吉田日出子さんらが結成した自由劇場が上演した「マクベス」に感動したことだった。

目の前で俳優が汗だらけでツバを飛ばしながら熱演している姿に心を打たれた高田さんはその日、「研究生募集」のチラシを見つけて演劇の世界に飛び込んでいく。

オーディションに受かったときはうれしかったね。人生で初めて「合格」の通知をもらったわけだから。そのとき、すでに一緒に住んでた女房に頼んでお赤飯炊いてもらったもん。

だけどさ、あとで聞いたらそのオーディションに受かったのが30人で、落ちたのが4人しかいなかったんだって。しかも、オレも本当は落とされるはずだったんだけど、29人じゃキリが悪いって、お情けで入れてもらえたらしいんだよね。

せっかく燃え上がった演劇熱もすぐ冷めた。オレって本当に飽きっぽいね

その後、研究所で知り合ったイッセー尾形さんと劇団「うでくらべ」を結成し、独自の演劇活動を始めた高田さん。

だが、その活動は長続きせず、1年たらずで解散して、高田さんは宝石鑑定士の資格を取って宝石の卸会社に就職する。

一体、何があったのか?

女房と同棲していたことはさっきも言ったけど、同棲から入籍に進んだことが大きいね。

女房は日舞の師範免状を持っていて、踊りを教えたり、ブティックの店員のバイトをしてくれていたので生活できないわけではなかったけど、いつまでもそんなヒモみたいな立場に甘んじているわけにはいかない、一家の主(あるじ)として自分の力でちゃんと生活していかなきゃいけないと思ったんだね。オレにもそういう、真っ当な一面があるのよ。

イッセー尾形さんとやっていた劇団もオレには高尚すぎて、肌が合わなかったということもあったしね。

宝石会社では、けっこう稼いでたよ。会社も景気よくて、ボーナスが年に3回もあった。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

安定した生活を捨てて劇団員に。もう「魔がさした」としか言いようがないね

その後、奥さんとの間に第一子である長女も生まれ、生活も安定していったというが、高田さんの「邪道の人生」の紆余曲折は、まだまだ続く。

サラリーマン生活が3年半経ったある日、本人曰く、「魔がさした」という理由で奥さんに黙って会社を辞めてしまうのだ。

人間、生活が安定してくると、魔がさす瞬間というのがやってくるみたい。

その年、夏休みで2週間の休みをもらったので、前から狙ってた受付の女の子を飲みに誘ったの。新宿の「ボルガ」という居酒屋。
なぜその店にしたかというと、そこは演劇関係者がよく利用している店だったから、会社の上司とか取引先の人と鉢合わせになるようなことはないと思ったから。

確かに会社関係の人とは会わなかったけど、そこでマズい相手と出会っちゃったんだ。
自由劇場の研究生仲間で、劇団東京乾電池を起ちあげたばかりのエモっちゃん(柄本明)とベンガル。あとから文学座の研究生になったヤツも参加してきて、演劇について、熱く語り始めたんだ。

こっちは4年も演劇から離れていたから、会話に入ろうにも入れる余地はない。だから途中で「じゃあ、サヨナラ」って席を立てばよかったんだけど、数カ月後に公演を控えてる彼らから「今の乾電池には高田が必要なんだ。一緒にやらないか」と口説かれてね。

当時、長女が生まれて1歳になるころだったから、その誘いに乗るなんてのは馬鹿げた選択だよ。だから、「魔がさした」としか言いようがないね。

このとき、高田さんは30歳の妻子持ち。

だが、人生を逆から見てみれば、この選択はその後の高田さんの人生を決定づける、重要な選択だった。

なぜなら、「東京乾電池に入団」という人生のピースは、「テレビに進出して人気者に」というピースにつながり、その後の「1987年、グロンサンのCM『5時から男』でブレイク」、「数多くのCMに起用されて『CMの帝王』と呼ばれる」というピースへとつながっていくからだ。

そう考えてみると、「魔がさした」という兆しは高田さんにとって、「幸運のシッポ」をつかむチャンスだったと言えるのではないだろうか。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版も読んでください。

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編集者、ライター、インタビュアー

編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より30年間で1500を超える企業を取材。財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ビジネス界に脈々と伝わる先人の知恵 業界のセオリー』(徳間書店)、『人を集める技術!』(毎日新聞社)、『はじめての輪行』(洋泉社)などがある。また、出版社の依頼で賞金500万円の小説新人賞の選考事務局を起ちあげ、10年間運営した経験のもと、齋藤とみたか名義で『懸賞小説神髄』(洋泉社)を執筆。それをきっかけに、池袋コミュニティカレッジ「小説のコツ」の講師を2013~2023年の10年間つとめた。

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