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教え子に書かせた親の戦争体験 反戦訴える教師だった父が残した50年前の本 #戦争の記憶

小田大河映像クリエイター

コロナ禍で東京の自宅を整理していた2022年冬、父親が50年前に自費出版した本を偶然見つけた。『再びこの道を歩むまい』。愛媛県今治市の大島で高校教師をしていた私の父・小田玄人(はると)が、教え子たちに両親の壮絶な戦争体験を書かせた文章がつづられていた。「もはや戦後は終わった」と言われた時代に、父親はなぜこの本を残したのか?戦争が再び身近になったいま、私は教え子たちや、数少なくなってしまった父の友人と再会するために旅に出た。
■描かれた壮絶な体験
原色の派手な表紙が妙に懐かしさを感じさせるその本は、1972年に父が自費出版した。父は4年間にわたり500人以上の高校生に手記を書かせ、その中から40作を選んだ。真剣に読んだのは初めてだった。生徒たちの父や母の戦争体験。そこにはさまざまな人間ドラマが描かれ、悲惨な戦争の現実が伝えられていた。今なら問題になりかねない過激な描写もあった。

『原爆放射能を浴びた父』を書いたのは2年生の男子生徒。広島の秘密部隊に所属していた父は、爆心地から2〜3Kmの至近距離で被爆した。奇跡的に命をとりとめた父が、原爆の無惨さを語っている。「建物という建物はみな吹き飛ばされ。人という人はみな焼かれ、地面を這いずりまわり苦しんでいる。これが戦争なのだろうか。女、子供まで焼き、草木を焼き、地上にあるすべてのものを破壊することが戦争なのだろう」

『特攻隊だった父』特攻隊といえば戦闘機のイメージがあるが、この男子生徒の父が乗るはずだったのは、飛行機ではなく海軍の特攻艇「回天」だった。粗末なベニア板で作られた狭い1人乗りのボートは、ただ一直線に相手に向かっていくだけ。出陣したら最後、飛行機と違い基地にも戻れず、生きては帰れない。父親は山口の離島で毎日命がけの訓練を続け、あと1日終戦が遅かったら命はなかったという。

『父の本心に触れる』。軍艦の衛生兵だった父は、戦友たちの壮絶な死を見続けた。戦後、酒が入るとその話を息子に語っていた。酒を飲みすぎたある正月のこと。当時を思い出し、こうわめいた。「戦友は泣きながら死んでいったんだぞ。お前たちにはわかるまい。ガダルカナルでは半分も戦友が死んだんだ」。そして、軍歌を悲しげに歌っていた。

『父の戦争体験』。父親が息子に、隊長の命令で中国人を銃剣で殺害したと明かした。息子が「好んで人を殺したのか?」と聞くと、父は「誰が好んで人を殺す奴がいるか」。それからはもう、何も聞かなかった。

私は読み終えて、涙が止まらなかった。そして思いあたった。父はきっと私にも伝えたかったのだ、自分の戦争体験を。この本のために教え子たちが親子で語り合ったように、自分も息子に聞いてほしかったのだ。それがかなわないから、この本を出したのではないか。そう思えてきた。

父がこの本を自費出版した最大の理由もわかった。「いつかまた日本が戦争に向かった時に、教え子たちに再び読んで欲しい」。

■父の遺言を思い出す

父は1997年に末期がんを宣告された。父は私に「俺の最後の姿をカメラで記録してほしい」と言い出した。1週間ほど仕事を休み、カメラを回した。死ぬまで反戦を訴えた父は、家族には自らの戦争体験を隠していた。「陸軍中野学校の出身だから死ぬまで秘密だ」と親戚から聞かされていた私は、言いたくないものを無理には聞くまいと思っていた。余命を宣告され、語れなかった中野学校や戦争のことを最期に語りたくなったのだろうと思った。

撮影を始めたが、がんの進行は思ったより早かった。私がいったん東京に帰った時に食物を喉につまらせ、そのまま急死。中野学校も戦争体験も聞けなかった。

父は高校教師でありながら自主映画を撮っていた。いつか息子が映画化してくれるだろうと期待し、自分の戦争体験をシナリオとして書こうとしていた。病室で書いていたものが死後に見つかったが、導入部で終わっていた。父の戦争とは、人生とは何だったのか。そして、何を伝えたかったのか。ずっと気にかかってはいたが、自分が還暦にいたるまで直視するのは避けてきた。

だが、ようやく思い直した。この本は戦争が始まったいまこそ、意味を持つのではないか。いまこそ、多くの人に知られるべきではないのか。そう思うと、父がこの本を残した理由がどうしても知りたくなった。「故郷に帰って、教え子たちに聞けぼいい」。父にそう言われた気がした私は2023年夏、カメラを持って故郷の大島に向かった。

■50年後の「教え子たち」に会いたい
50年後の教え子たちの消息は簡単にはつかめなかった。高校のアルバムは役に立たず、現在の高校の関係者やOBなど手当たり次第に聞いて回った。手記を書いた40人のうち少なくとも6人がすでに亡くなっていた。

連絡先がわかった順に電話をかけた。教え子たちは70歳前後。最初に電話をかけた人からは「オレオレ詐欺」と間違われ、電話を切られた。それにしても不思議だった。何人に電話しても、本のことも、父のことも全く覚えていないのだ。50年経ったとはいえ、あれほど鮮烈な戦争体験を書いて、忘れるものだろうか。そこで、住所がわかった人は直接会いにいくことにした。

初めに会ったのはレモン農家の女性。気さくに取材に応じてくれたが、自分が書いた手記も父のことも全く記憶がないという。考えてみたら、当たり前かもしれない。私だって本のことをつい最近まで忘れかけていたのだ。

■「父の戦争」を知る旅に出る
私の父は1926(大正15)年生まれ。銃剣術は全国大会に出場するほどの腕前で、17歳で陸軍に志願し、満州などを巡った。私が知っているのはそれくらいだ。

戦争中の父に何があったのか、父の戦争体験を知るただひとりの親戚を訪ねた。父が「陸軍中野学校のスパイだった」と教えてくれたのはこの人だ。その話では、父は新兵として満州の激戦地を回った後、陸軍中尉としてロシア、中国で諜報活動をしていた。戦後もすぐには復員せず、中野学校の密命を受け樺太や台湾などでしばらく暗躍していたという。墓まで持って行かざるを得ない軍の機密を抱えていたのかもしれない。知らなかった父の実像が見えてきた。

復員後は愛媛大学へ。大学時代の親友の話では、父は拳銃を隠し持っていたという。大学にはほかにも将校出身の復員兵が何人もおり、戦争中の話はタブーだった。おいそれと他人に語れば戦犯として逮捕されかねなかったからだ。演劇やロシア文学、哲学に傾倒し、やがて反戦運動や安保闘争に熱中。戦争とは何かを若者に伝えるために教師になった。

最初の赴任地、瀬戸内海の大島で出会った美容師と結婚。兄と私が生まれた。『再びこの道を歩むまい』を自費出版したのは40代半ばのころ。5千部ほどの出版費用約百万円は父が全て払った。母親が美容院を経営していたからこそ出来たのだろう。この本を出すことが人生の悲願であり、この本に人生を賭けていたと、当時の父を知る友人たちは口を揃えた。

■真実を知る教え子との出会い 
2023年7月末。父を探す旅を始めて1ヶ月がたち、ようやくある教え子と出会った。赤瀬(旧姓・村上)昌子さんは、本のことも父のこともしっかりと覚えていた。「友達に本を貸したら戻ってこなくなった」と残念がり、父を教師として尊敬し、大好きだったという。そして彼女こそ、私がこの本を読んだ時、最も心に残る手記を書いた少女だった。

赤瀬さんの父は、中国で足を撃たれた。傷口にはウジ虫がわき、ハエがたかり、死ぬほどの痛みにのたうち回った。その後、1年間の捕虜生活を送った。父は当初、話すことを拒んだ。だが娘から高校の宿題だからと言われ、嫌々ながら全てを語っていた。戦争の話をしたのは、この時の一度だけだったという。

赤瀬さんは、私の父の素顔も話してくれた。父は教室ではいつもニコニコ笑い、生徒たちに愛されていた。授業が楽しみだったという。出版にあたっては教育委員会などに資金協力は要請できた。ただ、時間がかかるため「戦争体験を語ってくれる人が減る前に」と自費出版を決めたそうだ。父が出版にかけた思いを、いまもしっかりと心に刻んでくれている人がいる。これが何よりもうれしかった。

■新たな旅の始まり 
本のあと書きで、父が書いている。「戦争で生き残ったものの使命」とは、戦争を伝えることである。父はこの本によって、その使命を果たそうとした。言いたいことも言えずに死んでいった何十万、何百万の日本人のためにも、真実を伝えなければ死にきれなかったのに違いない。

瀬戸内海の小さな島の中にも、多くの戦争の傷跡が残されている。父はそれを全国の人々に伝えたくて自費出版に踏み切ったのだと確信した。

私はそんな父の思いを、さまざまな形でこれからも伝えていきたい。私にとっては、新たな旅の始まりである。

「#戦争の記憶」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。戦後80年が迫る中、戦争当時の記録や戦争体験者の生の声に直接触れる機会は少なくなっています。しかし昨年から続くウクライナ侵攻など、現代社会においても戦争は過去のものとは言えません。こうした悲劇を繰り返さないために、戦争について知るきっかけを提供すべくコンテンツを発信していきます。

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】

クレジット
監督・撮影・編集   小田大河
プロデューサー    金川雄策 

映像クリエイター

大学卒業後、テレビ番組制作会社に入社し、NHK、TBS、フジテレビなどで主に情報系、ドキュメンタリー番組を担当。2007年映画「太陽てぃだ」監督・脚本。その後10年に渡り、世界50ヶ国を回って、ネイチャードキュメンタリー作品を中心に演出。現在はテレビ、映画の他に、観光用のPR映像も制作中。

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