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【富田林市】工事期間10年と膨大な費用がかかります。寺内町創設の祖、興正寺別院の修復工事とは。

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

いまさらながらですが、なぜ「寺内町」という名前がついているのでしょう?戦国時代に一向宗(浄土真宗)の寺院を中心に形成された自治都市が寺内町と呼ばれる所以だったわけです。

その中心となったのが、皆さんご存じの興正寺別院(別名 富田林御坊)です。私は2年前から寺内町に頻繁に行くようになったのですが、まだこのお寺の敷地内に入ったことがありませんでした。

それは建物の老朽化のため状態が悪く、改修工事をする必要があるので、敷地内は立ち入りできなくなっているためです。

そんな興正寺別院の境内に入るまたとない機会が、4月16日にありました。大阪府文化財保存活用プロジェクトが主催する「重要文化財富田林興正寺別院と寺内町のハレの日の食事」です。

同プロジェクトが主催するイベントは過去2回行われ、初回が堺市、2回目が吹田市。この興正寺別院のイベントが3回目なのだそうです。

イベントの後知った話ですが、50名定員のところ58名が集まったそうです。イベントの関心の高さがうかがえました。

当日は興正寺別院の輪番(りんばん)、華園(はなぞの)勝文氏の講話をはじめ、寺内町の散策やハレの日の再現料理を味わえるという内容でした。

ちなみに輪番とは寺役(てらやく)を順番に交替して務めることという意味ですが、浄土真宗では別院を統轄する役職のことを輪番と呼んでいるようです。

このイベントでは、最初に華園輪番による富田林別院に関する講話がありました。寺内町は、戦国時代の1560(永禄)3年に、本願寺一家衆興正寺第16世・証秀が石川西側の丘の上、荒れ地を百貫文で購入して造られた町。

一向宗興生正寺別院を中心に開発されていて、周辺にあった4つの村の有力者、八人衆と呼ばれる人たちの協力で造られた自治都市なんだそうです。

またこの時に面白い情報があり、一向宗の本山である石山本願寺と織田信長との戦いでは、富田林寺内町は本願寺側につかなかったために、信長から攻撃の対象にならなかったという記録があるようです。

講話の途中に、境内の建物の説明がありました。

国の重要文化財の興正寺別院本堂です。1638(寛永15)年に建てられた建物で、大阪府にある浄土真宗の建物としては最古とのこと。よく見てみると、屋根の部分も随分傷んでいるのがわかります。

石塔の右に見えるのが対面所です。本殿と同じく国の重要文化財で、江戸時代末1856(安政3)年に建てられたもので、本堂の北側に位置します。

入口の頭の部分に丸みをつけたデザインの一種、唐破風(からはふ)。浮造り(うづくり)と呼ばれる木の表面をこすり木目を際立たせた方式の大玄関で、この奥にある奥座敷は主君が家臣と対面した「上段の間」になっているそうです。

外からも見える鐘楼(しょうろう)も国の重要文化財で、1810(文化7)年に建築。境内の南東隅に位置しています。

工事の柵があり見えにくいですが、木の右側に見えるのが御成門(おなりもん)と呼ばれるもので、これも国の重要文化財です。山門の北側にあり、1857(安政4)年に京都興正寺から山門を移築するのにあわせて、現在の場所に移築したとのこと。

こちらはイベント当日に実際にくぐった山門で、この門も国の重要文化財です。1857(安政4)年に京都興正寺本山より移築された門で、薬医門形式(やくいもん)形式です。

薬医門形式は室町時代の武家や城で使われていた門の形式で、平屋建てでは最も格式が高いとされる門です。実際に伏見桃山城の門との伝承があり、その真意はともかく、少なくとも江戸初期に建てられた城門が移築されたと考えられているそうです。

こちらは外から見える鼓楼(ころう:太鼓を設置する建物)で、もちろん国の重要文化財です。一見、城の櫓(やぐら)のようにも見えますね。有力な浄土真宗寺院を特徴づける建築物なのだそうです。

18世紀後期の建築物で、1810(文化7)年に現在の位置に移築されたそうです。

これも外からも見えるもので、京都御所などと同じ築地塀(つきじべい)と呼ばれているもの。大阪府の指定文化財になっています。境内正面に配置されており表の見栄えを良くしている(表構え)が特徴です。

こちらは文化財ではありませんが、興正寺別院を建てた証秀上人(しょうしゅうしょうにん)の記念碑。1895(明治28)年4月11日に竣工したものです。記念碑の文字は平安神宮初代宮司を務めた壬生 基修(みぶもとおさ)伯爵に依頼したそうです。

このように興正寺別院の境内には本当に貴重な文化財や歴史的な建築物が数多く残っていることがわかり、また格式の高いものであることもわかります。

寺内町に残る多数の古民家もすごいですが、やはり興正寺別院は別格ですね。

しかし、講話のなかでいちばん気になったのは修復に関することです。

華園輪番によれば、総事業費23億円のうち、国の重要文化財の建物ということで、国が85%、市が7.5%負担してくれるそうです。しかし残りの7.5%(1億7250万円)は寺が負担しなければならないのです。

寺としてはこの1億7250万円について寄付などを募っていますが、まだ半分程度しか目途が立っていないとか。それでは現在集まっている金額で先行工事することはできないのかとも思いましたが、その先が見えないために行えない状態であるとのこと。

お金の問題なのでほんとうに難しいところですが、寺内町の貴重な文化遺産であるのは事実ですので、早く工事が始まってほしいとお話を聞いて思いました。

華園輪番の講話と興正寺別院境内の見学の後は、ボランティアガイドによる寺内町巡りです。普段歩いていても気づかなかった寺内町のことをいくつか教えて頂きました。

この後はこちらの佐渡屋こと旧家・仲村家に残っていた記録を基に、割烹高野さんが当時のハレの料理を再現したものをいただきました。

こちらが仲村家住宅のハレの日の再現料理です。

お品書きがありました。順番はバラバラですが、番号順に次の料理とのこと。

①赤飯(古代米)・白飯
②香之物
③焼物(さごし)
④膾(なます)(大根・人参・干柿)
⑤とのいも
⑥煮物(白飯・牛蒡<ごぼう>・凍豆腐・青菜・椎茸<しいたけ>)
⑦煮菜
⑧ぬた(わけぎ・うすあげ)
⑧蓮餅
⑩汁(白板、青菜)

以前、室町時代の西国の守護大名大内氏が足利将軍をもてなすために作られた料理を再現したという「大内御膳」を山口県でいただいたことがあります。

その時も感じましたが、現在の料理を知っている者として、調味料が今ほど充実していないこともあるからか、味付けがシンプルな印象。現在の料理がいかに複雑で贅沢に作られているのか改めて感じました。

ということでイベントが終わり、帰りに興正寺別院の山門前に行くと、ちょうど華園輪番が門のところにいらしたので、挨拶をして改めて簡単にお話を伺うと、次のようなことを言われていました。

雨が降ると雨漏り、壁が崩れたりヒヤヒヤします。460余年守り続けてきたお寺をできるだけ早く次の世代に引き継ぎたい、その思いでいっぱいです。

華園輪番は、保存修理委員会はじめ、檀家や地域の皆さんの力を借りながら保存修理事業を進めているそうで、どうにか大切な文化財の修復をしたいとの思いがあるのですが、上記のお金の問題があって、どうしたものかと頭を悩まされていました。

富田林には寺内町のほかにも見どころはたくさんありますが、やはり寺内町はシンボル的な観光地です。

その寺内町の中核施設である興正寺別院が無事に修復工事が行われ、リニューアルした姿になってほしい、お話を伺いながら改めて強くそう思いました。

富田林興正寺別院(外部リンク)
住所:大阪府富田林市富田林町13-18
アクセス:近鉄富田林駅、富田林西口駅から徒歩で約8分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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