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【富田林市】地図の口コミで紹介されている佐備城跡と思われる場所を探してみました。

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林の佐備地区といえば、石川の東側ひと山越えたところにあり、東条(東條)地域のひとつとして農業な盛んな地域ですね。また獅子っ子とよばれる愛らしい石像がある佐備神社などがあります。

ところが、その近く、中佐備交差点から少し滝谷不動明王寺側に入ったところに気になるスポットを発見しました。それは佐備城跡です。そして次のような口コミがありました。

佐備城は南北の観心寺道、東西の瀧谷道、二つの古い街道の交差点の南西に隣接する富田林市佐備752の共同墓地がその中心で、「蓑城」・「垣内」・「堂の西」・「クボ垣内」の小字名が残る。

観心寺道、瀧谷道というふたつの古い街道の、交差点の南西にある共同墓地を中心とした地域に佐備城跡があったとのことで、さらにこの場所に城があったことを感じさせられるような小字(こあざ)名が残っているというのです。

ちなみに観心寺道とは、寺内町に入る直前の東高野街道あたりから分岐して、川向、西板持、佐備、龍泉、甘南備を経由して観心寺に向かう道のことで、それを赤で示せば、現在の金剛バスの東条線のルートとほぼ一致します。

それに対して瀧谷道とは、南海滝谷駅近くの中高野街道から分岐して廿山(つづやま)、錦織、瀧谷、佐備、中山を経由して赤阪方面に続いている街道で、青で示したルートを通っています。

これはかつて滝谷不動尊駅ができる前に、滝谷駅から利用された参道と、滝谷不動明王寺を越えてからはそのまま千早赤阪村に向かって続いている道とほぼ一致しているようです。

観心寺道と瀧谷道の交差点だった中佐備交差点
観心寺道と瀧谷道の交差点だった中佐備交差点

ちなみに観心寺道は、吉野方面に行き来するのにも便利な街道だったそうです。

1351(正平六)年に、当時南朝の行宮(天皇の住まい)があった吉野賀名生(あのう:奈良県五條市)から後村上天皇が住吉へ行幸(ぎょうこう:天皇の外出)された時に使用したという記録があります。

また瀧谷道の記録では1359(延文四)年に、南朝方の楠木正儀・和田正武らが籠っていた嶽山城を攻撃するために、北朝側畠山国清の軍勢が津々山(廿山)から進撃した道で、嶽山城が落城してから、さらに赤坂方面に向かう際にこの道を使ったという記録が残っているそうです。

地図を見ると佐備城があったと思われる場所から少し南寄りに嶽山城跡(亀の井ホテル富田林のすぐ近く)があり、嶽山城を守る出城(前線基地)のような役目、もしくは向城(城攻めの攻撃拠点)を果たしていたという想像ができますね。

そのような口コミを見るとでとても気になった私は、佐備城跡とされるあたりがどうなっているのか行ってみることにしました。

中佐備交差点方面から西にある滝谷不動明王寺側を歩いていると、左手に小さな道を発見しました。この道を歩けば佐備城跡とされる場所に行けそうです。

意外にもコンクリートで整備されている道を歩いていきます。

何か見えてきました。

途中、反対方向の道が分岐していますが、その先は柵で出入りできません。

さらに進んでいきましょう。

ずいぶん開けているところに出てきました。先ほど建物が見えたあたりに向かっているようで、いろいろ建物が見えることから公園のようにも見えます。もしかして佐備城跡を公園に整備したのでしょうか?

ところがここは情報が全くありません。これぐらいの整備されて、かついろんな設備がある場合、公園などであれば何らかの情報があるのです。

しかし、それがないということはおそらく、私有地と考えられますので、この先には行きませんでした。

「きのした」と書いてあります。この場所に何があるのか、改めて後日調べてみたのですが、全く情報が出てきません。おそらく「きのした」さんの個人所有の物だと推測できます。

以前この画像に映っている場所を佐備城としている情報も見たことがありますが、それは間違いのようです。

佐備城とは全く関係がありませんので先に進みます。

道はさらに続いていますので、そのほうに向かいます。

こちらのほうは丘のようになっていますね。当時の城は山城のように小高いところのあると考えられるので、やはりそうなのかなという気がしました。

道はさらに続いています。途中から緑に覆われてうっそうとしていますね。

お墓のような物を発見しました。

さらに道は続きましたが、ちょっと不気味だったこともあり途中で先に進むのを止めました。実際にこの先には何があるのかについて、次の口コミがあったからです。

富田林市佐備752の共同墓地がその中心

つまりこの先にあるのは共同墓地ということもあったので、この先に行くのを止めることにしました。

後日航空写真で確認すると、このように山に囲まれた高台に墓地らしきものが写っています。

そして地図でもこのようにこの細い道は墓地に向かっています。道路が意外にきれいに整備されているのは墓地に行く方々のためのものだったようで、その途中に私有地の入り口があったということでしょう。

という事で、途中の道から共同墓地があると思われるところを見上げました。今は墓地になっていますが、もし伝承が正しければここに嶽山城の出城としての佐備城があったと考えられます。

ちなみに口コミでは、佐備城は南朝方が築いた嶽山城の枝城(出城)なのか、逆に嶽山城を攻める北朝方が築いた向城かについての詳細は不明とのことでした。

というわけで、口コミ情報を確認するために佐備城跡周辺に行ってみてきました。

ほとんど情報がなくおそらく現時点では公式に認められていないと考えられますが、だとしても実際に現場に行ってみると、古くからの主要街道の交差点付近にあって小高い立地となっているという事実。

また守り手か攻め手かはわかりませんが、ここに攻撃の拠点である簡単な城を築城してもおかしくないという気がしました。

佐備城跡とされる場所
住所:大阪府富田林市佐備752
アクセス:近鉄富田林駅からバス 中佐備バス停から徒歩10分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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