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18歳の宮脇俊三が玉音放送を聞いた駅 米坂線・山形鉄道フラワー長井線 今泉駅(山形県長井市)

清水要鉄道ライター

今日で昭和20(1945)年8月15日の終戦から78年目を迎える。戦争は鉄道にも大きな影響を与えたが、終戦当日の鉄道はどのような様子だったのか。それを今に伝えてくれるのが紀行作家・宮脇俊三の名作『時刻表昭和史』だ。昭和改元16日前の大正15(1926)年12月9日に産まれ、昭和という時代と共に生きた宮脇が自身の前半生と戦前期の鉄道の歴史を重ね合わせて綴った随筆である。昭和55(1980)年7月22日に角川書店から発行され、現在も角川文庫で版を重ねて読み継がれている。

米坂線(令和元年12月15日、羽前松岡駅 写真の車両は現在只見線で運用されている)
米坂線(令和元年12月15日、羽前松岡駅 写真の車両は現在只見線で運用されている)

終戦当時、宮脇は東京帝国大学理学部地質学科に在籍する18歳の学生だった。宮脇家は空襲で東京の家を焼かれなかったものの、父・長吉を除いて新潟県岩船郡村上町(現:村上市)に疎開していた。長吉(当時65歳)は元陸軍軍人で、衆議院議員を勤めていたこともある人物だが、当時は鉱山会社を経営しており、東京から大石田の炭坑へ向かう途中で8月10日朝に村上に立ち寄った。宮脇は父に同行して大石田へ向かうことになり、8月12日朝に村上を出立。大石田に二泊、天童で一泊して8月15日に村上に帰ることになった。天童を8:33発の奥羽本線で出発して赤湯で長井線(現:山形鉄道)に乗り継ぎ、今泉に到着したのは11時30分。ここで坂町方面への米坂線を待つことになった。そして、正午を迎える。

今泉駅前
今泉駅前

今泉駅前の広場は真夏の太陽が照り返してまぶしかった。中央には机が置かれ、その上にラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。
正午が近づくと、人びとが黙々と集まってきて、ラジオを半円形に囲んだ。父がまた「いいか、どんな放送であっても黙っているのだぞ」と耳もとでささやき、私の腕をぐっと握った。
この日も朝から艦載機が来襲していた。ラジオからは絶えず軍管区情報が流れた。一一時五五分を過ぎても「敵機は鹿島灘上空にあり」といった放送がつづくので、はたして本当に正午から天皇の放送があるのだろうかと私は思った。(宮脇俊三,『時刻表昭和史』,角川書店,2001,p248)

筆者がこの駅を訪ねたのは冬だったので、写真の駅前広場は曇り空の下に沈んでいるがお許しいただきたい。駅前広場と言ってもそれほど大きなものではないが、自家用車も少ない時代だったので、乗客や近隣住民が集まるには充分な広さだったのだろう。軍人で政治家だった父・長吉は事前に放送の内容を知っていたのだろう。前日に放送があると天童の宿で知らされた時にも「いいか、どんな放送であっても黙っているのだぞ」と息子に伝えている。

今泉駅の駅舎 この前で宮脇父子は玉音放送を聞いた
今泉駅の駅舎 この前で宮脇父子は玉音放送を聞いた

天皇の放送がはじまった。雑音がひどいうえにレコードの針の音がザアザアしていて、聞き取りにくかった。生まの放送かと思っていた私は意外の感を受けた。しかも、ふつうの話し言葉ではなく、宣戦の詔勅とおなじ文語文を独特の抑揚で読みだしたのも意外だった。
聞きとりにくく、難解であった。けれども「敵は残虐なる爆弾を使用して」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は生ま生ましく伝わってきた。「万世の為に太平を拓かんと欲す」という言葉も、よくわからないながら浸透してくるものがあった。
放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。(宮脇俊三,『時刻表昭和史』,角川書店,2001,p248~p249)

米坂線(左)とフラワー長井線(右)
米坂線(左)とフラワー長井線(右)

宮脇父子がこの小さな乗換駅にいたのは長井線から米坂線への乗換えのためだった。放送が終わってから、彼らの乗る米坂線坂町行109列車が駅に入ってくる。もちろん現在のようなディーゼルカーではなく、蒸気機関車が牽引する客車列車である。

時は止まっていたが汽車は走っていた。
まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入って来るのを待った。こんな時でも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
けれども、坂町行109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。
汽車が平然と走っていることで、私の中で止まっていた時間が、ふたたび動きはじめた。私ははじめて乗る米坂線の車窓風景に見入っていた。(宮脇俊三,『時刻表昭和史』,角川書店,2001,p249~p250)

宮脇父子は疎開先の村上に帰るべく、坂町行109列車に乗りこむ。この列車は時刻表によれば今泉に13:52着で、5分間停車して13:57発だ。玉音放送から1時間50分近く後の列車であるが、宮脇は「天皇の放送が終ると、待つほどもなく列車はやってきたのだ」と書いている。彼は終戦の二カ月前の6月10日ダイヤ改正で削減された今泉12:32発107列車に乗ったような気がしてならないと回想しているが、こう結んでいる。

しかし、昭和二〇年九月号の時刻表を信用することにしよう。天皇の放送を聞いたあと、坂町行の列車が来るまでの間、私の「時」は停止していたのだから。(宮脇俊三,『時刻表昭和史』,角川書店,2001,p251)

さて、ここで印象的なシーンの舞台となった今泉駅についても触れていこう。今泉駅は米沢と坂町を結ぶ米坂線、赤湯と荒砥を結ぶフラワー長井線の2路線が接続する駅である。開業は長井線の方が早く、大正3(1914)年11月15日の梨郷~長井間開業時に途中駅として開設された。米坂線が開業して乗り入れたのは宮脇が生まれたのと同じ年、大正15(1926)年9月28日である。駅舎は長井線(当時は長井軽便線)の開業時に建てられたもので、終戦時点で築30年、今日時点では築108年だ。78年前に18歳の宮脇少年が玉音放送を聞いた時と同じ駅舎が今日も利用者を見守っている。

ホーム
ホーム

ホームは2面4線で、駅舎側がフラワー長井線、離れた側が米坂線ホームだ。フラワー長井線のホームは昔ながらの木造の屋根が今も使われている。米坂線は昨年8月3日の豪雨による被災で当駅~坂町間が運休・バス代行となっており、今も運転再開の目途は立っていない。利用者の少ないローカル線だけに廃止も噂されており、今後が気にかかるところだ。

鉄道ライター

駅に降りることが好きな「降り鉄」で、全駅訪問目指して全国の駅を巡る日々。

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