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父との確執を越え、400年続く名家の「捕鯨の歴史」に向き合った息子が出した答えとは

遠枝澄人ビデオグラファー

四国東南端、高知県室戸市。ここは土佐古式捕鯨発祥の地として知られる。黒潮や深海から湧き上がる栄養豊富な湧昇流の恩恵をうけ、現在に至るまで盛んに漁業が続けられてきた。室戸の水産業発展の礎となった鯨漁は江戸初期に始まる。この鯨漁を土佐で始めて組織し、代々経営に携わった多田家の末裔が、室戸で唯一の写真館を営む多田知生(ちせい、42歳)だ。先代の父、運(めぐる、83歳)は、捕鯨と関わりの深い多田家の子孫として、郷土史や古式捕鯨の研究に精力的に取り組んできた。対する息子は一見、あまり家の歴史に関心がないように見える。知生は末っ子で、「兄2人出ていって僕まで出ていったら、それはちょっとあまりにもかわいそう」に思え、家業を継いだという。自身の従順な性格に苦しんだ息子が、高齢の父との残された時間で、先祖の歴史の継承と向き合う姿を追った。

● 郷土と先祖を愛する父
運は、捕鯨に始まる室戸の水産業の歴史保存に多大な貢献をしてきた。活動の理由を聞くと、
「歴史のないところっていうか文化のないところには、僕は基本的に人間っていうのは住めないと思う。そう思っておるわけ。何百年もこの岬の突端の地にも人がこういう風に住んでいるということは、この地域の文化に対する、先人が育んだ文化に対するものに愛着があるから『室戸はいいところやよ、おらが生まれたところやもん。』ていう」
そして「そこの地域の文化を思い至ったらやね、もっと心豊かになると思う。もっと愛情が大きくなると思う」と話す。

一方で、家業の写真館を継いだ当初は、この地で長い歴史を持つ家の当主としての自覚は全く無かったと言う。先祖を尊ぶ気持ちは、地域との関わりの中で次第に芽生えていった。
「先祖に恥をかかすような行いは、せられんなっていう思いはまあ、だんだんだんだん生まれてくるわね。多田に恥をかかしたくないって言うふうな」
「知生なんかもそうだと思うよ。ね。いつの間にか知生もそんな思いになっておると思うよね」
知生や知生の娘に対して、先祖の奔走の歴史を知り多田の誇りを胸に生きてほしいと願う。

● 息子の苦しみ
年の離れた兄たちは、父と反りが合わず家を出ていった。残された知生は跡を継ぐため、写真学科がある東京の大学へ進学することにする。しかし、時間の経過とともに室戸に戻る意思は失われていった。それでも父からのプレッシャーに耐えられず卒業後に帰郷する。写真館を継いでからは、自身の正しさを押し付ける父との関係に苦しんだ。知生の意見や提案はことごとく否定され受け入れられない。高校時代、大好きで尊敬していた父とは別人に思えた。
「『申し訳ないけんど、僕(知生)の人生をもう諦めてくれ』みたいなことを言われて。そん時にもう信頼が無くなったかな。そういう価値観はちょっと僕にはなかったね」
「僕のことを思って何かしてくれるんじゃない。写真館のことを考えて、多田の家のことを考えて色々なことを考えゆうがやなって」
その後、うつ病を発症し、2年間通院する。
「帰ってきて、1年、2年ぐらいの時期やったかな。悲しい気持ちが朝起きてから寝るまでずっと続いて」
現在と比べてうつ病に対する認知度が低く、父を含め周囲から病気への理解も得られなかった。

● 自分はおかしい
自身の性格に疑問を抱いたのは、30歳近くになってからだった。幼少期から、父の意思に沿う選択を続けてきた。気づいたときには、自分で自分のことを決めるという当たり前のことができなかった。しかし次第に、周りに合わせるだけの自分を気持ち悪い存在だと感じるようになる。

きっかけとなったのは、東京でのバンド生活だった。大学の友人に声をかけられ、30歳を前に再び上京。室戸を離れ、2年間バックバンドの演奏の仕事をする。
「ようやくその時に、自分っておかしいんじゃないかって思うようになれた。29ぐらいの時まではもう何か、人に合わせることがいいことやって本当に信じちょったと思う。うん。でもそれが間違っちょったって、その29の時に分かった」
「そもそもその、自分の人生を自分で決めていいはずやのに、なんか誰のために生きゆうのかなって。親とかいろんな人が、僕にああしろ、こうしろって言ってきて。でも別にそれは自分じゃない。他の人やき。その人たちのことを言うこと聞く必要ないのに、なんか聞かないかんみたいな思い込みがあって」

音楽の世界には限界を感じた。バンドの契約が切れると、室戸に戻り写真館へ復帰する。しばらくして結婚し、娘を授かった。時代の移り変わりとともに需要が変化するなか、自分なりの写真館経営を模索している。
「携帯電話持っている人がみんな写真撮れるようになった。そういう時代に、誰でも写真が撮れるようになったときに、写真館でないと撮れない写真ってやっぱりあると僕は思って」

● 目を向けてこなかった先祖の歴史
これまで大きな病気を繰り返してきた運も80歳を超えた。2021年には、医師からもう先は長くないと告げられる。一方、今でも写真館へは、鯨や地域の歴史について話を聞きに、人が運を訪ねてくる。知生もまた、この地で生活を送る中で「多田家の子」「運の子」として、捕鯨の歴史について尋ねられる機会が増えた。

● 土佐古式捕鯨と多田家
16世紀後半、戦国大名、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が四国全域を勢力下におく。元親に領地を与えられ、200人の家来と共に室戸に移り住んだのが知生の先祖にあたる、多田五郎右衛門(ごろうえもん)元平だ。大庄屋(おおじょうや)職と土佐湾一円の漁業権を相続した元平の嫡男、義平は、海防に追われる。大勢の軍夫の扶養に苦心した末、1624年(寛永元年)に土佐初の組織的な捕鯨を始めた。当初は銛を用いた突き取り式だった。その後、より捕獲率の高い網取り式捕鯨の導入や経営者の変遷を経て、1906年(明治39 年)に土佐沖でノルウェー式の銃殺捕鯨が始まる。室戸の網捕鯨は廃業に追い込まれ、283年続いた古式捕鯨に終止符が打たれた。

近代捕鯨の時代に突入すると、漁の舞台は北洋、南氷洋へと移っていく。室戸からは多くの捕鯨船砲手や船員が輩出された。また、網捕鯨の廃業により、旧捕鯨会社の600〜700名が失業する。新たに設立された銃殺捕鯨の会社に雇用されたのは200人程で、多くの漁夫は、カツオ漁などを専業とした。これが後の遠洋漁業の発達へと繋がる。

● 父が語る先祖の歴史を記録する
「僕と父は、僕としてはあんまりいい関係じゃないと思っちゅうけど、自分の子供からしたらそんなもの関係ない。でも知りたいって思った時に、もう全く手がかりがなかったら良くないなと思って」
残された時間で、父が語る先祖の歴史を映像に記録することを決意した。

録画用のスマートフォンを三脚に据え、記念写真用の椅子に運が腰をおろす。運が執筆した古式捕鯨や多田家の資料を手に、知生からの聞き取りが始まる。先祖がこの地へやってきた経緯、捕鯨の起こり、紀州太地との網取式捕鯨の伝承を通じた交流の歴史が、運の口からゆっくりと語られる。さらに知生から質問が投げかけられる。祖父や曽祖父について知りたい思いがあった。明治に入ると、耳崎(本家)の多田家は室戸から横浜に出る。その後、再びこの地に戻った知生の祖父が、写真館を開業したのだという。歴代当主を遡りながら、「末子相続、一番末っ子が継いでいくことが多い。今もたまたま、ここも。耳崎の多田は知生が、一番の下が、継いだよね。そういう家系かもしれんわ。」と運が微笑む。

● 多田家への思い
後日、写真館へ知生を訪ねた。自身の意思で物事を決めることができるようになり、多田家に対する思いはどう変化してきたのか。
「ご先祖様からこう繋がってきたことって、素晴らしいことやと思うし、価値はあることやと思うけど。それと一人の人間を結び付けることが良いことなのかどうか…」
「多田の人間だからこうあるべきとか、こうしないといけないとか、何かそれを言い出したら、男の子を作らないかんとか、そういうところにつながってきてしまうと思うがね。でもそういうのって、何のためにあるのかなって思ってしまうかな。自分はね。僕の代で例えば途絶えたとして、それをご先祖様が怒ってくるがかな。それを言ったらもう、捕鯨辞めた人はめちゃめちゃ怒られたろうかね」
一方で、ルーツを重んじる父のような存在も認める。映像の記録を決意したのは、将来そういった人たちや、娘の役に立つことがあるなら、と思ったからだ。
「この家を、『大切に続けていかないかん』って思うのもいいし、『別にそんなこと俺は知らんわ』って言ってもいいって思える」
継承の孤独を乗り越えた先に、知生がたどり着いた答えだ。

クレジット

監督・撮影・編集 遠枝澄人
プロデューサー 初鹿友美
アドバイザー 長岡参

ビデオグラファー

1992年千葉県生まれ。筑波大学在学中、半年間キューバに滞在。卒業後、JICA青年海外協力隊として、2年間中米グアテマラで活動。帰国後、高知県室戸市に移住。地域おこし協力隊として、室戸ユネスコ世界ジオパークの活動に携わりながら、地域の出来事や踊る妻を撮影する。2021年より、本格的に映像制作を始める。中南米と日本の2拠点で暮らしながら、映像をつくりたい。

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