家康・三方ヶ原古戦場碑は、がっかり観光地?
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【どうする家康】ゆかりの地(城・古戦場)一覧と旅行モデルコース(とらべるじゃーな!)
大河ドラマ「どうする家康」では、前半の大きな山場である、三方ヶ原の戦いが終わりました。
夏目広次(演・甲本雅裕)、本多忠真(演・波岡一喜)の見せた大活躍は、1度の回で描いてしまうには、もったいないほどでした。
※ネタバレにならないように概要のみ記しました。
この回に感激し、実際に三方ヶ原古戦場跡を訪ねてみたいと思った方も、大勢いらっしゃるはず!
「どうする家康」のすぐ後のショートコーナー、ゆかりの地紹介でも取り上げられた、三方ヶ原古戦場碑は、浜松駅から北へバスで約40分。三方原墓苑バス停で下車します。
浜松城址や、家康がはじめに入城した引馬城跡とセットで訪ねられる場所です。
進行方向に見える木立が、三方ヶ原古戦場碑(または三方原古戦場碑)です。
「どうする家康」のゆかりの地紹介でも、石碑のアップしか映らなかったように、周辺は完全な住宅地です。
古戦場全体の案内図もあり、「どうする家康」を見た方ならイメージが大きくふくらむ場所ですが、未視聴の方だと、がっかり観光地のように感じるかもしれません。
この三方ヶ原で家康が討ち死にしていれば、いまの日本の姿はなかったはず。なぜ歴史の分岐点であるこの地は、住宅地になってしまったのでしょうか?
一方、こちらは、関が原古戦場跡。同じ古戦場跡でも風光明媚で、多くの観光客が訪ねます。
関が原古戦場との違いは、三方ヶ原は広大な河岸段丘上の台地であるということです。
河岸段丘を作ったのが、暴れ天竜とも言われた天竜川。氾濫をくり返し、東西に流れを変え、一時は現在の浜名湖を貫いていたのでは?という論考も見たことがあります。
川は、流れる場所を変えながら、土地を削り帯状の面を作る性質があります。その後、隆起などの関係で、取り残された面が高くなると河岸段丘と呼ばれる高台が、川沿いに誕生します。
※関が原も浜松も扇状地という面では共通しますが、浜松では暴れ天竜が東西に河岸段丘をこしらえたという点が異なります。なお、関が原にも小規模の河岸段丘は存在します。
地図 国土地理院地図を加工
家康が引馬城に入った頃、現在の浜松は小さな宿場町でした。
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しかし、家康が浜松城を築城すると、大きく発展します。現在のように浜松が発展したのは、河岸段丘上の広大な三方原台地に、多くの人が住むことができたことも要因です。
このような背景があり、浜松への通勤圏である三方ヶ原古戦場碑周辺は、住宅地となっており、当時の面影は数少なくなっているのです。遺構が少なく、戦いの場所についても諸説あり、調べながら旅をするのも1つの楽しみ方です。
もし、三方ヶ原古戦場の古い姿を確かめたい場合、二俣城がおすすめです。
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