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【東西2つの関ケ原】家康のいない間が大チャンス!ここぞとばかり覇道へ乗り出した3武将

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

天下分け目の、関ケ原の合戦。こう聞けばほとんどの方が、徳川家康と石田光成の直接対決を、思い浮かべると思います。

しかしこの戦い、当地以外の地方でも様々な勢力が、徳川方と石田方に分かれ、合戦や駆け引きをくり広げていたのでした。

どちらかの後押しで出陣した大名もいますが、むしろ「これは千載一遇!」とばかり、別の意味で目を輝かせる武将も。

何しろ最大勢力たる徳川軍を始め、全国の名立たる大名が、中央に釘付けになっているのです。

・・と、なれば。これに乗じて一大勢力にのし上がれば、ほとんど確定しつつあった

豊臣か徳川か?という天下人への道に、割って入れるかも知れないのです。

なかでも今回は関ケ原を中心に考えたとき、まさに日本の東西となる、九州と東北でくり広げられた一大決戦。

それも展開次第では、覇者となれたかも知れない3人の武将について、ご紹介したいと思います。

【黒田官兵衛】最高の頭脳は天下に届くか?

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』。そのタイトル通り、戦国でもトップクラスの策略で、秀吉を天下人へと押し上げたのが、黒田官兵衛です。

重要な合戦において、その勝利のウラには常に、彼の権謀術数が存在していました。

たとえば明智光秀との決戦において、事前に彼は毛利氏など、他大名の“軍旗”を入手。

いざ開戦となると、いきなり陣に掲げ、それらの勢力が秀吉に味方したと勘違いした明智兵を、大いに動揺させました。

また難攻不落の小田原城攻めでは、使者として単身で城へ乗り込みます。目的は降伏勧告ですが、まったく威圧感を見せず。むしろ美味しい食べ物やお酒を手土産に、にこやかな態度でした。

「はっはっは、これがまた美味でございましてなあ!」

さながら宴会でもしに来た雰囲気に、戦いに疲れ気味だった北条氏の面々は、こう思いました。

「ああ、早く戦いの日々を終わらせて、こんな風に過ごしたいなあ」

官兵衛の狙いは、クリーンヒット!その話術の巧みさも相まって、ガチガチに守って抵抗していた小田原城を、開城させてしまったのです。これによって犠牲を免れた兵士の数は、はかり知れません。

このように硬軟の両方を使い分け、気付けば勝利を量産してしまうのが、彼の頭脳。

一説によれば当の秀吉も、その冴えすぎる智謀を恐れ、あまり大きな領地を与えなかったとも伝わります。

そんな官兵衛は、今でいう福岡県の一帯を治めていましたが、徳川VS石田の知らせを耳にすると、いち早く家康の勝利を予見。息子の黒田長政を関ケ原に送り込みますが、同時にこう考えました。

「これは、またとない好機!このスキに九州を制圧すれば、わが天下も見えて来ようぞ!」

これまで常に、主君のために策を献上し続けて来た、官兵衛。しかし、このとき初めて、己の野望のため動き出したのです。

表向きは「徳川殿の敵対勢力を、討ち取っておきますぞ!」と言いつつ、他大名の領土や城を次々と奪取。

もともと、今でいう大分県の大大名であった“大友氏”を撃破するなど、目覚ましい勢いで拡大して行きます。

ところが・・肝心の関ケ原の戦いは、たった1日で決着。家康も官兵衛の野心を警戒してか、九州での停戦を命じます。きっと官兵衛としては、悔しかったに違いありません。

「くっ、好機がこの手を、すり抜けおった!」

しかも関ケ原を決着させたのは、黒田長政の“小早川秀秋を寝返らせる”という、調略によってでした。

まさか自身の才能を、息子が見事に受け継いでいたことが、野望を阻むとは皮肉な運命です。

このとき関ケ原の合戦が長引き、双方が疲弊したところに、九州を制覇した官兵衛が第3極として躍り出れば、天下人への道も夢ではなかったかも知れません。

「ふ・・ふふ。運をも味方にする器でなければ、天下には届かぬか。」

息子の非凡さは、ふつう親としては嬉しいものですが・・胸中は複雑だったに違いありません。関ケ原の4年後、官兵衛は59才で、その生涯を閉じました。

【直江兼続/伊達政宗】いざ東北から第3勢力へ

戦国大名でも名立たる存在の上杉家。もし「その最盛期は?」と聞かれたら「もちろん、上杉謙信の時代でしょう」とイメージする方が、多いと思います。

たしかに一時期は関東をも席巻しましたが、すぐ北条家に取り返されてしまった上、本来の領国もたびたび、地方勢力の反乱には悩まされました。

そう考えると、最盛期はむしろ2代目の上杉景勝。会津に120万石とも言われる勢力を誇った時代と、言えるかも知れません。しかも、そんな上杉軍を、かつて大河ドラマの主役にもなった名将・直江兼続が率いているのです。

その勢力には徳川家康も危機感を抱き、上杉討伐へ向かったタイミングで、石田光成が挙兵。まさにこれが関ケ原の戦端を開いたと言っても、過言ではありません。

さて、家康が関ケ原へと不在になったタイミングで、直江兼続は一気に勢力拡大を目指します。徳川方の大名であり、今でいう山形県の一帯を治める、最上(もがみ)家へ攻め込んだのです。

その進撃はすさまじく、最上は領土の奥深くまで斬り込まれ、重要拠点を必死で防衛する展開となりました。

このときに勝敗の鍵を握っていたのは、同じく東北の大大名・伊達政宗でした。彼は最上家とは婚姻関係で、徳川方と宣言していましたが、じつは上杉家とも通じていました。つまり、この時点ではどちらにも転じられる立ち位置と言えます。

そして、これは・・決して表に出せることではないので、あくまで一つの説ではありますが、、伊達家内では以下のような策も、考えられたと言います。「最上は善戦しているが、いずれ敗れる。だがその時は、上杉もかなり消耗しているはず。ならば、その機に我らが総攻撃をかければ、最上と上杉の領土、両方を得られようぞ!」

伊達政宗は、スペインと手を組んで天下を狙った説もあるほどの野心家。これくらいは考えてもおかしくはなさそうです。実際に伊達家は、最上家から再三の援軍要請が来るも、すぐには参戦しませんでした。

しかし伊達政宗の母は、最上家当主の妹という間柄です。その母から、怒りの催促が何度も届きます。「何をしておる!早う援軍を送らぬか、早う!」さすがの政宗もこれは無視し続けられなかったのか、結局は最上を助ける方針を決定。

ここに上杉家VS最上・伊達家の「慶長出羽(けいちょうでは)合戦」の火ぶたが、切って落とされました。智将や猛将も揃う両軍の戦力は拮抗、一進一退の激しい戦いが続きます。

そして双方の犠牲も増えてきた、そんな最中。“関ケ原の戦い決着!”という、衝撃の知らせが両軍にもたらされます。

この瞬間、上杉の敗北は決定しました。なにしろ、これから日本中の大名は、徳川色に染まって行きます。ここで最上や伊達と対峙していたら、本国の会津には四方から敵軍がなだれ込んで来るでしょう。

上杉勢は急ぎ撤退を決断しますが、とうぜん最上と伊達はこの機を逃さずに猛追。直江兼続の奮戦で、何とか全滅は免れましたが、領土や兵士の多くを失ってしまいました。

さて、戦後に行われた徳川家による論功行賞。結果として一番の勝者は、いちばん野心が無かったと思われる最上家でした。家康は言いました。「身を挺して上杉を喰い止めた働き、じつに見事!」もともと24万石だった領地は、倍以上の57万石ほどと、大加増。

ちなみに伊達政宗も徳川方としては戦いましたが「おぬし、何か怪しい動きを見せておっただろう?」と、わずか数万石だけの微増。

そして敵対した上杉は、取り潰しこそ逃れたものの・・国替えのうえ、120万石から約30万石へと、減らされてしまいます。江戸時代も存続はしますが、とくに経済面で大きな苦難を強いられる歴史を、歩むことになってしまいました。

関ケ原の1日決着がもたらした運命

もともと戦国時代とは、すべては応仁の乱から始まった動乱です。そのときは東西の軍が10年にもわたって、戦い合いました。その間に、全国は群雄割拠となったわけです。それならば巨大勢力同士の関ケ原も、多くの武将が「簡単には決着しないだろう」と見なしても、不思議ではありません。

もしそうなれば、九州を席巻した黒田官兵衛や、東北で勝利した上杉家か伊達家が、第3極へ躍り出るシナリオも、有り得たかも知れません。たった1日の決着は、まさに青天の霹靂です。

もちろん日本全国の平和には、その方が良かったわけですが、その立役者が“黒田長政”だと思うと、何とも不思議な因縁です。

目まぐるしく変わる情勢、策略、思惑・・様々な人物の色々な運命が入り交じるからこそ、この時代は今なお、多くの人を惹きつけ続けている。そんな風に思えます。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。鬼滅の刃とドラゴンボールZが大好き■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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