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【戦国時代】じつは天下人になれたかもしれない武将「浅井長政」家康や信長にも劣らないその潜在能力とは?

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

日本の戦国時代。もし「天下を取れそうだった武将は?」と聞かれたら、あなたは誰を思い浮かべるでしょうか。

おそらくまっ先に挙がるのは上杉謙信や武田信玄、あるいは毛利元就や伊達政宗といった名が、候補になってくるかと思います。しかし、その中に「浅井長政(あざい・ながまさ)」の名を挙げる方は、きわめて少数でしょう。

しかし彼は古来より、覇者となるために必要と言われた3要素、“天・地・人”(天の時、地の利、人の和)にも恵まれ、じつは武将としての才能も並外れていました。

もちろん、結果的には天下に届かなかったわけですが、この記事では浅井長政という武将が秘めていた、その実力や可能性について、わかりやすくお伝えしたいと思います。

文武に秀でた若武者

ときは1560年、織田信長が桶狭間で世紀の大逆転を起こし、日本中を驚かせてから約2か月後。

浅井長政は約1万の軍勢を従え、倍以上の2万5千とも言われる兵力の、六角(ろっかく)氏と対峙していました。このとき長政は15歳、いくら成人が早い当時でも若い大将でしたが、見事に大勝利を飾ったのです。(※野良田の戦い)

桶狭間よりは兵力差が少なく、正直なところマイナーな合戦ではあります。しかし当時の信長が26歳だったことも考えれば、浅井長政は一回りほども下の年齢で、この大逆転を為しているわけです。

もともと浅井家は、長政の父の代に六角氏と戦って敗れ、長政は生まれた時は六角家の人質でした。そこから、旧浅井家臣たちの求心力を得て決起。また敵将を計略で寝返らせるなど、知略にも長けていました。

このように手をつくしてから決戦で六角を破り、浅井家を再興させて一大勢力を築いたのですから、非凡な才覚を見せていると言えるでしょう。

徳川家康にも劣らぬ立ち位置

のちに浅井家は織田信長の妹を娶り、同盟関係を築きます。このとき信長は大いに喜び、気前よく婚姻の費用を、全額負担したと伝わります。

そのうえ形だけ見れば、織田家の方が人質を出した格好でもありますから、信長も末長く手を携える意図だったことが、感じ取れます。

当時、織田家のロードマップとしては、美濃の斉藤氏を撃破し、その勢いで京都へ向かう算段でした。その道中には六角氏が立ちはだかりますから、戦略的にも浅井家と手を組むのは良策です。

しかし、それ以上に信長は長政の才能に惹かれ、徳川家康との関係にも劣らず、ともに天下統一の夢を掴むつもりではなかったかと、筆者の目には映ります。

幼少の頃は人質、一族を再興、大軍を相手に逆転勝利と、家康や信長と重なる境遇も多々あり「お主もワシらと同じじゃ」などと、さぞかし話も合ったのではないでしょうか。

信長をも上回った戦才

戦国時代に触れている方ならば、ご存知と思われますが・・浅井家は“朝倉家”という大名とも、同盟を結んでいました。その朝倉と織田が対立した際には朝倉家を選び、信長とは敵対関係となってしまいます。

そうして起こった、世に言う“姉川の合戦”。浅井VS織田、朝倉VS徳川という構図で始まりますが、信長は長政の軍勢に対して、目に見えて突き崩されてしまい、大ピンチに陥ります。

このままであれば信長の敗北は必至でしたが、一方で朝倉軍を撃破した徳川勢が浅井軍へなだれ込み、さすがの長政も2軍を同時には対処できなくなりました。

浅井軍はやむなく退却し、合戦は織田・徳川連合軍の勝利に終わりましたが、経緯を見れば長政は信長を上回っており、ここでも武将としての並々ならぬ軍才が証明されています。

運命の分かれ道

なぜ長政は中立に回るでもなく、はっきりと朝倉家を選んだのか?これは戦国ファンや専門家の間でも、様々な説が飛び交うところです。

歴史の表には出ない、並々ならぬ事情があったことも考えられますが、とにかくこの決断が、浅井家の運命を急変させてしまいました。

姉川の合戦後に信長の勢力は増し続け、さすがの長政も対抗し続けられず、そのまま滅亡してしまったのです。

しかし、わずか数年前を考えれば、“天地人”の要素に恵まれた立ち位置にいました。

  • 天の時=宿敵の六角家に、内紛が起こり弱体化。独立を果たすと織田家から同盟の申し出が来る
  • 地の利=京都に近い要衝に拠点。同じ近江の国には、のちに安土城が築かれたほど
  • 人の和=幼少から忠義を尽くす優秀な家臣がいた。また日の出の勢いの信長から、縁を持ちかけられる。

・・といった具合であっただけに、そうした方向に逆行してしまった選択だけは、やはり惜しまれます。

天下に届いた可能性

ちなみに浅井長政の亡き後、彼の娘たちは豊臣家で権勢をふるい(茶々)、江戸幕府2代将軍の妻(お江の方)となり、しかもその子が3代将軍の家光となるなど、天下の中枢で存在感を放っています。

長政の亡き後でさえこれほどですから、もし浅井家が存続していれば、その影響力は計り知れません。

いわゆる“たられば”の話にはなりますが、もし長政が信長と歩んでいれば、天下でも有数の勢力に成長した可能性は高いでしょう。

本能寺の変の後は、豊臣と徳川が天下を競い合う歴史となりますが、そこに加わるようなポジションも、十分に考えられたと想像できます。そして勝ち残る展開となれば、あるいは“浅井幕府”の設立も、有り得たかもしれません。

しかも長政には才覚に加え“家康よりも若い”というアドバンテージもありましたから、健康であれば様々なチャンスに、食い込むことが出来たことでしょう。

いくつもの分岐点

このように歴史は“もしも”を考えれば、いくらでも可能性は言えてしまいます。しかし、それにしても人生前半の躍進や、備えていた実力と言い「もし信長と歩んだら、どこまで行ったのか」を思い浮かべたくなってしまうのが、浅井長政という武将です。

順当に行けば武田家や上杉家とも、ぶつかる可能性が高いでしょうから、長政なら信玄や謙信とどう対峙したのか、そうした想像にもロマンがあります。

趣味の領域にはなりますが、ポテンシャルあふれる人物に対して、その違った未来をあれこれ思い浮かべてみるのも、歴史の面白いひとつかも知れません。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。鬼滅の刃とドラゴンボールZが大好き■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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