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「もうあんな思いはしたくない」一粒に込められた想いを届ける創業98年の老舗米屋 #昭和98年

こばやしとなかむら映像ディレクター

「店を閉めてしまったのは、ほんとうに後悔しましたね。もうあんな思いはしたくない」。東京・荻窪で3代続く老舗「森田屋米店」を経営する森田昌孝さん、ひろ美さん夫妻は、30年前の「平成の米騒動」をこう振り返る。歴史的な不作から米価が急騰し、1カ月もの休業を余儀なくされた。この時の痛恨の思いが、老舗米店の大きな転機となった。「生産者の顔が見える米屋」をモットーに、産地と消費者を直接橋渡しする経営スタイルに転換。米離れが叫ばれ、地域の食卓を支えてきた「町のお米屋さん」が激減するなか、森田屋にはいまもたくさんの客が集まる。その秘密を探った。

<町の食卓を支え続ける創業98年の老舗米店>
「環八」の通称で知られる東京・荻窪の幹線道路沿いに、いまや都内では数少なくなった米の小売店がある。この地に店を構えて98年の老舗「森田屋米店」だ。店内には屋号が刻まれた大きな精米機と、全国から集まった米袋が山のように積み上げられている。店主手製の木棚に並べられた米袋には、銘柄の表示だけでなく、1つひとつにポップが付けられ、生産者の顔写真とともに米の特徴が詳細に記されている。

仕入れる米は、農薬や化学肥料を極力使わない特別栽培米や有機栽培米など約70種類。小売店は米卸から仕入れるのが一般的だが、森田屋では3代目店主の昌孝さん・ひろ美さん夫妻が自ら産地へ買い付けに行き、できる限り生産現場を見たうえでお米を仕入れるようにしている。

「銘柄が同じであれば、お米はどこで買っても変わらないというお客さんもいますが、肥料や土壌など産地によって環境が異なるので、生産者1人ひとりでお米の味は違うんです。例えばつや姫でも、うちの場合は『山形の〇〇さんが作ったつや姫をお願いします』と生産者指定で注文がくるんですよ」と昌孝さん(66)は語る。

スーパーやコンビニ、ネット販売など、米はいまやどこでも買える時代。だからこそ大切なのは、銘柄や品種の違いだけではなく、誰がどんな思いで作った米なのかというこだわりなのだ。昌孝さんとひろ美さんは手作りの産地レポートを配りながらそれぞれの米の特徴を丁寧に伝え、生産者の声を消費者につなぐ。そんな対話型の販売が、客の心をつかんでいる。

「スーパーではどうしても精米日が2週間〜1カ月前などになってしまうが、この店では精米したてが手に入るので」という主婦。「妊娠中の妻に、安全でおいしいお米を食べさせたい」という夫。「コロナ禍でリモートワークになり、家でご飯を食べる機会が増えたので少しでもおいしい米を食べたいと思うようになって」という夫婦。森田屋には、米との一期一会の出会いを楽しみたい客が訪れる。

ただ、近年の米離れと共に、米屋にくる客も次第に減ってきたと昌孝さんはいう。「100人いたら、もう米屋で米を買う人はそのうちの1割か2割くらいですね。配達軒数も昔に比べて4分の1くらいに減っちゃった」。ひろ美さんも「もうみんな米は食べないですよね、若い人はみんな手軽な外食かパンを食べるから。お昼の番組もスイーツの特集ばかりだしね。昔からやってる米屋さんもどんどんなくなってる」という。

<父の代から受け継ぐ「おいしい米」へのこだわり>
森田屋は、1926(大正15)年に昌孝さんの祖父が米の配給所として創業した。かつて米は配給制で、家庭ごとに割り当てられる米の量が決まっていた。祖父は60キロの米俵を積んだ自転車やリヤカーで、順番に届けていた。

「近所の人がリヤカーで遊んでもらったり、うちのお米を食べて大きくなったっていう話は、いまでもお客さんから聞きますね」

配給制が廃止されてからも、なじみの店に買いに行ったり配達に来てもらったりと、町のお米屋さんは日常の中に溶け込んだ風景だった。ところが、少子高齢化や人口減少、食生活やライフスタイルの多様化によって、1人当たりの米の消費量は1962年のピーク時から年々減少し、半世紀で半分以下になった。2022年度の1世帯当たりの年間支出金額を比べると、米19825円に対しパンは32497円(総務省「家計調査」)となっており、その差は年々広がっているという。
95年の新食糧法施行で米流通は自由化され、スーパーや大手量販店が安い価格で大量に卸し始めたことも逆風になった。およそ20年で米を扱う都内の事業者は1400軒以上減少し(農林水産省「米穀の出荷又は販売の届出事業者数」※年間20精米トン以上の事業者)、町のお米屋さんは徐々に姿を消していった。

そうした業界の先細りを懸念し、悩む父の姿を見た昌孝さんは、いったんは一般企業に就職した。しかし、父の長年の右腕だった従業員が病で倒れると、店を継ぐ者がいなくなった。「祖父の代から買い続けてくるこれだけのお客さんを、守っていかなければ」。こう思った昌孝さんは会社を辞め、25歳で家業を継いだ。

「うちは昔から『おいしいお米』にこだわって販売してきたので、政府から支給される標準価格米よりも(政府を通さずに取引できる)自主流通米のササニシキをメインに取り扱ってきたんです。当時はそういった銘柄米を扱う米屋さんは少なかったと聞いています」と昌孝さん。ひろ美さんも「私が嫁いできた頃も、両親からはとにかくおいしい米、おいしい米と言われてきました」という。

<転機となった「平成の米騒動」>
先代の思いを継ぎ、おいしい米を仕入れる方法を模索していた矢先に起きたのが、1993年の「平成の米騒動」だ。まれにみる冷害と日照不足による大不作。備蓄米も足りず、卸から米が仕入れられずに店頭から米が消えた。森田屋も創業から初めて、店を閉めざるを得なかった。夫妻はいまも、それを後悔しているという。

「毎日米の値段が千円ずつ上がってくんですよ、どんどん。米を買いたいお客さんが押し寄せて来ちゃって、1カ月くらい店を閉めました。」
「でも、そこで考えますよね。そんな高いお米をお客さんに買わせられない。お給料みんな決まってるし。もうこんな思いしたくないと思いましたね。米屋に米が無いなんておかしいもん」

米を仕入れるため、メロンと現金の束を手に、米農家に直談判しに行った。それでも米を売ってはもらえなかった。こんな思いを2度としないためにも、それまでの卸から仕入れるスタイルを変え、「生産者の顔が見える米屋」を目指した。農家と直接契約を結ぶため、東北を巡る弾丸ツアーを決行。延べ1450kmを車で3日間走り回った。

産地を目にしたのは、その時が初めてだった。「感動しました。袋の中のお米だけを見ていても、何も分かってなかったと実感しました」

このときに目に焼き付けた米作りの現場を、客や子どもたちにも知ってもらいたい。そんな思いから契約農家に協力を依頼し、田植え・稲刈りイベントを始めた。

「いくら化学肥料を使わないで有機肥料で米作りをやろうと考えても、やっぱり買ってもらえないと続けられない。参加者の方に『いい所ですね』って言ってもらえると、『あー、田んぼやってて良かったな』って思えるんだよね」。こう話すのは、イベントに協力している東京・八王子の米農家石川研さん(70)だ。江戸時代から受け継がれてきた田んぼと昔ながらの景色を守り続けているが、米どころとしての知名度が低く、都内の米屋で取扱いがあるのは森田屋ただ1軒だという。それでも毎年の田植え・稲刈りイベントには近隣県からも多くの親子連れが参加し、5月の田植えには約80人が集まった。子どもたちは土に触れ合い、カエルやアメンボなど田んぼに潜む豊かな生態系に目を輝かせ、用水路で水浴びをしたりしながら、米作りの現場を学ぶ。この体験から、農学部に進学した子もいるという。

<風評被害とたたかう福島・天栄米>
8月中旬、田植えと収穫期の間をねらい、森田夫妻は福島県天栄村の生産者のもとへと足を運んだ。取引がコロナ禍の最中に始まったため、これが初めての訪問だ。出迎えてくれたのは、内山正勝さん(73)。米の食味・品質を競い合う世界最大のお米の大会「米・食味分析鑑定コンクール国際大会」で、内外から5000点以上が出品される中、これまで8度の金賞に輝いた米作りの名人だ。森田屋で内山さんの米を買った客から「あまりにもおいしくて感動した」という声を聞いて、ぜひ会ってみたいとやってきたのだ。

天栄村は、福島県の中通り南部に位置する標高200〜600メートルの山間にある高冷地。大きな川が3本流れて水質が良く、粘土質の土壌で米作りに適した土地だ。米の輸入自由化で米価の下落に危機感を抱いた農家が2007年に「天栄米栽培研究会」を発足させ、有機栽培や特別栽培による自然環境に負荷をかけない自然の恵みを活かした米づくりを村一丸で取り組んできた。米とともに村の名前を覚えてもらおうと食味コンクールへ挑戦し、全国でも前例のない9回連続で金賞を受賞。良質な米作りの研究に、日々情熱を注いできた。

そんな天栄村を襲ったのが、2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故だった。村は原発から約70キロ離れているが、家屋や米蔵の倒壊に加え、水田も放射性物質による被害を受けた。

村役場と村民は連携して対策に乗り出した。土壌改良に力を注ぎ、その年に収穫された米は全袋が「ND(セシウム未検出)」となった。今では検査をしないで出荷できるまでになったが、内山さんは「風評被害の課題はいまだに解決されていない」と話す。

「原発事故の影響で今まで買ってくれていたお客さんはほとんど離れちゃってね。今でもまだ福島の農産物は食べないという人もいる。でも、こういうことがあっても買い続けてくれてる人はいて、そういうお客さんには何があっても安全な米を届けたいと思ってる」

震災から12年経たいまも爪痕は深く、新たに処理水の海洋放出が始まったのも心配だという。そんな内山さんの想いを受け止めた森田夫妻は、丁寧に草刈りがされた田んぼや稲の様子、土壌、有機肥料、倉庫にある機械などをくまなく見て回った。帰宅後はさっそく「産地レポート」にまとめ、客に配った。

森田屋には、こんな客もいた。母親が新型コロナで大切な友人を亡くし、食欲が落ちていた。そんなときに内山さんのお米をひろ美さんに勧めてもらい、そのおかげで母親は毎日お米が食べられるようになったという。

米離れだけでなく、農家の高齢化や担い手不足、耕作放棄地の増加、気候変動による自然災害など、米業界には課題が山積している。どうすれば、より多くの人に米を食べてもらえるのか。昌孝さんは「『一粒のお米が食卓に並ぶ背景』を地道にお客さんに伝えていくことが大切だ」という。全国にはまだまだ知られていないおいしいお米がたくさん眠っている。創業100年に向け、夫妻はおいしい米と生産者の思いを伝え続ける。

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】

監督・撮影・編集
小林 瞬 中村 朱里

タイトルデザイン
木本 葵

プロデューサー
高橋 樹里

記事監修
国分 高史

取材協力
森田屋米店
米乃内山
石川農園

資料提供
農林水産省

映像ディレクター

夫婦でディレクター&ビデオグラファー 小林 瞬:東京で生まれ父の仕事でインドネシアへ。法政大学卒業後、制作会社テレビマンユニオンにてNHKの番組を中心に製作。中村 朱里:大阪生まれ。京都精華大学芸術学部、ドイツカッセル大学芸術学部、制作会社テレビマンユニオンにてテレ朝『食彩の王国』でディレクターを担当。

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