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【土浦市】今昔さんぽ⑤東京から200名を超える子どもたちがやってきた!学寮となった旅館「土浦館」

コイケケイコ土浦在住ライター(土浦市)

今回「今昔さんぽ」として桜町界隈を歩いてきましたが、近代の土浦を語るには、どうしても戦争の記憶に触れておかなければなりません。

「今昔さんぽ」の番外編は、中城通りから川口川沿いを辿って「土浦館」へ。戦争と平和について思いを巡らせるきっかけになりますように。

上の写真は『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)より引用しています

「KG(ケージー)」の暗号で呼ばれていた「霞月楼」

最初に訪れたのは、中城通りから奥に入った路地裏にある「霞月楼(かげつろう)」。明治22年(1889)創業の老舗料亭です。

写真協力/霞月楼
写真協力/霞月楼

家族のお祝いなどの特別な日や接待の席として利用されることの多い料亭ですが、戦前には霞ヶ浦海軍航空隊副長の山本五十六(やまもといそろく)をはじめ、海軍士官の宴席の場としてよく利用されていたそう。

山本五十六は、配属された当初より何度となく霞月楼に足を運び、当時の主人との親交も深かったといいます。

引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)
引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)

「当時の航空隊には“KG”という暗号があり『霞月楼』を指していたそうです。『霞月楼』は特別な存在で、そこで過ごす時間は有意義なものだったのだと思います」と野田礼子さん。今回の今昔さんぽの案内人を務めてくださっている、土浦市立博物館の学芸員です。

写真協力/霞月楼
写真協力/霞月楼

出征前には送別の宴が催され、若い士官たちが寄せ書きした屏風は今も大切に残されています。なじみの芸者の似顔絵や座敷名、中には人間魚雷「回天」の文字も。若さゆえの無邪気さに加えて、悲しく辛い気持ちが伝わってきます。

<霞月楼>
住所:茨城県土浦市中央1丁目5-7 MAP
ホームページ:https://www.kagetsu.org/

予科練生が休日を過ごした指定食堂

「霞月楼」は士官クラスの憩いの場でしたが、若い予科練生たちにとっての憩いの場は、指定食堂と呼ばれた町の食堂でした。そのひとつが「吾妻庵総本店」。明治6年(1873)創業のそば屋です。

野田さん「予科練は14歳半から17歳までの少年を全国から選抜して、飛行機の搭乗員として基礎訓練をするもので、飛行予科練習生を省略して予科練生と呼ばれていました。予科練生の皆さんが楽しみにしていた休日には、指定食堂での食事が許されていました」

引用『町の記憶』(土浦市立博物館)
引用『町の記憶』(土浦市立博物館)

吾妻庵総本店が所蔵している昭和15年(1940)頃の看板には『本日食券御持参ノ方ニ限リ販賣致シマス』という記載が。

この看板が掲示されている時間帯は食券を持ってきた予科練生が利用したのでしょう。

看板の裏には『清酒ビール本日午后五時ヨリ販賣致シマス』とあり、予科練生たちが帰った後は看板を裏返して使ったようです。

「吾妻庵総本店」のほかに、中城通りの入口に建つ「保立食堂」も予科練生の指定食堂でした。店の二階は予科練生と家族の面会にも利用されていたそうです。

<吾妻庵総本店>
住所:茨城県土浦市中央1丁目6-11 MAP
<保立食堂>
住所:茨城県土浦市中央1丁目2-13 MAP

200名を超す子どもたちを受け入れた「旅館土浦館(土浦学寮)」

中城通りを後にして、川口川を辿るよう川口町へと向かって歩いて行きます。

「ここです」と野田さんに案内されたのは、モール505のほぼ中央付近の真向かいにある駐車場「タイムズ土浦川口」。ここにはかつて「土浦館」という旅館が建っていたそうです。

川口川の対岸から見た「土浦館」の風景 引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)
川口川の対岸から見た「土浦館」の風景 引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)

土浦館は、もとは「三味線屋」という船宿で、写真とは少し離れた場所にありました。移転し建て替えられ、木造三階建ての、写真のような旅館となりました。

引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)
引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)

館内には食堂やビリヤード場もあり、宿泊客にとっての土浦館は心身を癒す寛ぎの場でした。

引用『町の記憶』(土浦市立博物館)
引用『町の記憶』(土浦市立博物館)

野田さん「昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まって、空襲も必至の状況となると、東京などの学童の集団疎開が始まります。昭和19年(1944)9月に、戸山国民学校(現東京都新宿区立戸山小学校)の200名を超す3・4年生の子どもたちが土浦にやってきました」

「土浦館」の客室の一部。戦火を逃れるため東京から来る児童を受け入れるため、調度品は片付けられた。広間を利用し、児童が慣れない共同生活を送った 引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)
「土浦館」の客室の一部。戦火を逃れるため東京から来る児童を受け入れるため、調度品は片付けられた。広間を利用し、児童が慣れない共同生活を送った 引用『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)

土浦館は、戦時下の食糧不足で宿泊客への食事の提供もままならなかった時期でもあり、役所の依頼を受けて旅館業をやめて「土浦学寮」として疎開児童を受け入れます。

野田さん「慣れない共同生活を送る子どもたちの慰問に予科練生が時々遊びにきてくれたそうです。また、親との面会や親からの手紙はうれしいできごとでした。子どもたちにとって土浦館は、いろいろな思い出が詰まった場所だったんです」

家族との面会は嬉しい反面、別れるときのあらたな悲しみも生みます。駐車場とモール505の間にはかつて川口川があり、その川を渡るように「八千代橋」という太鼓橋が架かっていました。上の写真の道路部分が八千代橋の跡です。

野田さん「面会に来てくれた親が東京に帰るために八千代橋を渡りきり、姿が見えなくなると、泣き出す子どもたちが多かったことから『涙橋』と呼ばれていたそうです」

戦争の記憶を辿っていくと、土浦のまた違った表情が見えてきます。悲観的な気持ちになるだけでなく、予科練生たちの、そして当時の市民たちの経験に想いをめぐらすことで、今ある日常への感謝の気持ちが募るものでもあります。

今回の今昔さんぽでは、土浦市立博物館発行の『戦争の記憶マップ』を参考にさせてもらいました。

ネット上でも閲覧ができるのでよかったらダウンロードして街歩きの参考になさってみてくださいね。

戦争の記憶マップ(表面) →PDF
戦争の記憶マップ(裏面) →PDF
※紙のパンフレットも土浦市立博物館にて販売しています。なお、2023年2月現在、本館は工事で休館のため付属展示館の東櫓にて取り扱っています(1部150円)。

土浦在住ライター(土浦市)

土浦市在住のフリーランスの編集・ライター。海外・国内の旅行関連のガイドブックや書籍制作をはじめ、ブライダル情報誌の編集にも携わる。食べること・飲むことが好きで、趣味が興じて最近では食を中心にWEB、紙媒体などで取材執筆活動中。地元土浦の飲食パトロール、歴史やカルチャー学習も積極的に行っています。

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