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「また津波がきたとしても大丈夫」と言えるようにーー将来を決めあぐねていた兼業漁師の覚悟 #知り続ける

佐々木航弥映画監督・映像ディレクター

岩手県宮古市の重茂地区は、住民のほとんどが漁業に携わる漁師町だ。ワカメと昆布の養殖が盛んで、その生業(なりわい)は父から息子へと50年以上も受け継がれてきた。いま、その伝統に危機が迫っている。2011年3月の東日本大震災による津波で全壊した養殖場は、12年をへて震災前の姿を取り戻しつつある。だが、漁師たちの心境に変化が生まれた。息子には家業を継がせないという親が増えてきたのだ。「このままでは近い将来に重茂の漁業が廃れてしまう」。そう危惧しているのが、筆者の友人・山崎宗谷(30)だ。山崎は重茂で生まれ育ち、北海道の大学を卒業後に再び重茂に戻った。いまは重茂の漁業協同組合で働きながら漁業も営む。血縁関係の中でのみ受け継がれてきた養殖業のあり方に限界がきている――。そう考えた山崎は漁協で働きつつ、7年前からワカメ・昆布の養殖にも乗り出した。「まずは自分からこの現状を変えていきたい」と意気込む山崎の挑戦を追った。
(敬称略)

●「震災から復興する地元の力になりたい」。山崎の覚悟

「ここではみんなが知り合いで、海と共に生きている人ばかり。こんなに純粋な『漁師町』というのも今どき珍しいと思う。俺はそんな重茂で働くのが好きだ」

こう語る山崎は、筆者の高校時代の同級生だ。当時は野球部でキャッチャーをしていた。優しくて陽気な人間という印象だった。

山崎が生まれた宮古市重茂地区の近くには多数の漁場があり、子供から大人までそこに住むほぼ全ての人が漁業に携わる。山崎は重茂漁協の共済指導課に勤め、共済保険の営業・管理をしている。その営業成績は県内の漁協でトップを誇る。

北海道釧路市の大学から重茂漁協に入った山崎は、漁協に入った直後から漁にも出るようになった。いわゆる兼業漁師。初めに手がけたのは重茂名産のアワビやウニ漁だ。アワビやウニは夏と冬の数週間に漁穫時期が決まっている。その時期だけ出勤前の早朝に海に出ればいいため、副業的に漁をする人が多い。山崎はそれにとどまらず、7年前からは通年で管理しなければならないワカメと昆布の養殖にも取り組んでいる。人手を求む近所の養殖を営む漁師に声をかけられたのがきっかけだった。いまでは、独り立ちしてもおかしくないほどの技術をつけている。そんな若手は人口が少ない重茂においては貴重な存在だ。
2021年に実家を建て替え、祖母と両親、妻と2人の子供の4世代で同居している山崎は「家のローンもあるから稼がないと。俺は一生、重茂に骨を埋める覚悟だよ!」と笑う。

山崎は高校時代、特に将来を考えずに何となく大学進学を選んだという。そんな考えを改めさせたのが、高校の卒業式直後に起きた東日本大震災だ。

「生まれ育った重茂がめちゃくちゃになってしまった。子供の頃からよく遊んでいた漁場や海沿いの友達の家、なじみの商店も流されてしまった。幸い俺の家は高台にあるから被害は免れたが、地元がこんなことになってしまって、俺は地元を離れて大学なんかに行っている場合なのか」

本気で悩んだというが、すでに入学は内定していた。震災から間もなく、釧路の大学へ通うため重茂を離れた。

故郷を離れてみると、重茂のことが好きな自分に改めて気がついた。家から出れば住民に声をかけられ、みんなが知り合いで手を取り合いながら生きている。そんな重茂で働くと決め、漁協への就職を選んだ。ただ、母親には猛反対された。漁協の職員は地元の高校を出てすぐ就職した人がほとんどで、大学新卒での就職は珍しい。「何のために大学に通わせたと思ってるの?」というのが母の言い分だった。

「震災から徐々に復興する重茂の力になりたかった。俺みたいに大学を出て色々学んだ人間がいた方が、違う角度から重茂のためになれるのではないか」。こう考えた山崎は母の反対を押し切り、重茂で生きる道を選んだ。

●伝統的な継承に警鐘を鳴らす山崎

ワカメと昆布の養殖は、重茂の漁業を経済的に支える大きな柱だ。重茂がほかの多くの産地と異なっているのは、湾内ではなく外洋に養殖用のロープをはりめぐらせ、そこに種を植え付けて育てていることだ。湾内なら高波で施設が壊れる心配も少なく、港近くで作業できるのに対して、外洋では高波の影響を受けやすくなる。その分、作業も厳しくなるが、太平洋の荒波にもまれたワカメと昆布はしっかりとロープに根付き、歯応えが抜群になる。その品質の良さから、多くの買い手がついている。

重茂の養殖場は区割りされ、割り当てられた漁師が責任を持って管理する。漁獲時期は半年に1度で、漁師はそれに向けて1年を通して手入れをしている。ここでは血縁関係で引き継ぎながら50年以上にわたり養殖場を維持してきた。ところがここ数年、こうした形で養殖場を維持するのが難しくなってきているという。山崎によれば、漁師の高齢化や若手の減少のほか、震災によって漁師の心境が変化したことも一因だという。現に県内の近隣地区の漁協が震災後に経営破綻してしまった例もある。「また津波が来たら収入が途絶えてしまう。こんな不安定な仕事を息子に継がせたくない」という漁師が増え、震災後は養殖業を継ぐ若者が少なくなった。いまも養殖をやめる漁師が年に1人はおり、数年後には今の伝統的な区割りの仕方には限界が来ると山崎は警鐘を鳴らす。

たとえ血縁関係がない者でも、ワカメ・昆布の養殖を引き継げないかと山崎は考えた。しかし、そこには重茂ならではの風土による大きな壁があるという。山崎によれば、それは次のようなものだ。ワカメ・昆布の品質を上げるには間引きが欠かせないが、1回に5時間以上もかかる大変な作業だ。重茂では間引きや収穫は家族総出で行ない、手が足りなければ近所の若者などに手伝ってもらってきた。山崎自身も、子供の頃はそうした作業を手伝っていたという。こうした人材確保は、ほかの地域では水産会社や漁協が仕切っているが、重茂では漁師が個人のつてでやっている。よそから来て養殖を始めようとしてしても、家族が作業に加わったり、地区内で横のつながりをつくったりするよう求められる。このためワカメ・昆布の養殖業は敬遠され、1人でもできるほかの漁が選択されてしまうのだという。

伝統を重んじてきた重茂では、前例主義もまた大きな壁だ。「俺は重茂の出身だが、父親は会社員だった。そういう俺が養殖業を本格的に覚えて、何かあった時には自分でそこを管理できるようになれば、他の人も新規参入しやすくなるのではないか」と山崎は考えている。

これまでは区割りされた養殖場を管理する漁師が辞めると、その区画はほかの漁師が追加で受け持つ形で維持されてきた。そのやり方に限界がきたとき、そこは誰も使わない空き漁場になってしまう。「それだけは避けなければならない」と山崎は話す。「漁協職員だからこそ分かるのだが、空き漁場が増えて漁獲高が減ってしまうと、買い取ってくれる業者がつかなくなってしまう可能性がある。今は安定した量を供給できるし、品質が良いからたくさんの業者がついているが、このまま漁師が減って漁獲高が減ったら、買い手がつかなくなる。そうなると重茂の経済的な損失は半端ではない。漁協の経営も難しくなるし、何よりほぼ全員が漁業に関わるこの重茂自体の存続も難しい」

●父として

山崎はいま、近くに住む知人らのワカメ・昆布養殖を手伝っている。2月のある日の午前1時。氷点下5度の凍てつく寒さの中、間引き作業を手伝う山崎に同行した。「5時間はかかるだろうし、船酔いするだろうから、1時間ほど見学してもらえたら」。山崎は筆者をそう気遣いながら、常人なら立ってはいられないほど揺れる船の上で黙々と作業にあたった。将来を決めあぐねていた高校生の面影は、どこにもなかった。

「これが終わったら家に帰って準備して漁協に働きに行く。なかなか大変な生活だよ」。そう話す山崎の表情は、なぜか楽しそうだ。「震災がなかったら、車が好きだから車の整備士にでもなっていたかな。震災があったからこそ俺の人生は決まったのかもしれない。でも、この選択に後悔はない」

山崎に養殖のノウハウを教えたベテラン漁師は「こうやってやる気がある若い人がいたら、漁師の息子ではなく養殖場を与えてもいいと思う。宗谷は立派な漁師になってきている」と評価する。山崎が重茂の伝統的な養殖場を受け継ぐ日は、近いかもしれない。

「極端な話、もう1回津波がきたとしても大丈夫だと言えるように色々と準備していきたい。漁協職員の立場でも漁師の立場でも、不測の事態に対応できるようになることは、きっと重茂のためにもなる。まずは自分が養殖場を継いで、それに続いて血縁関係のない若者にも養殖に参入してもらって、将来にこの元気な重茂を残していきたい」

山崎には3歳になる息子と生まれたばかりの娘がいる。海で遊ぶのが大好きな息子を肩車しながら、楽しげに港を散歩する山崎には、密かに思い描いている夢がある。

「息子には自由に将来を決めてほしいけど、あわよくば『一緒に養殖をやりたい』と言ってもらえたら、そんなにうれしいことはない」

当初は山崎が養殖業を手伝うことに反対していた妻の久美さん(29)も、こう言ってほほ笑む。

「息子が養殖をやるとなったら、その時は、私も手伝おうかな」

クレジット

記事/撮影・編集・監督
佐々木 航弥
撮影
小笠原 圭助

映画監督・映像ディレクター

1992年生まれ。岩手県宮古市出身。大阪芸術大学卒業。AOI biotope所属。大学時に映画監督の原一男に師事。撮影・編集・監督をした卒業制作のドキュメンタリー映画「ヘイトスピーチ」(2015年)が座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルのコンペティションで入賞。その後、劇場公開される。その他、撮影・編集・監督をしたドキュメンタリー映画「僕とケアニンとおばあちゃんたちと。」(2019年)「僕とケアニンと島のおばあちゃんたちと。」(2022年)を劇場公開している。

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