信長の鉄砲隊 ブラタモリ種子島ではどう扱った?
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大河ドラマ「どうする家康」では、長篠・設楽原の戦いが描かれ、信長の鉄砲隊が武田騎馬隊に致命的な打撃を与えました。
長篠・設楽原古戦場(愛知県新城市)には、長篠・設楽原の戦いで重要な役割を果たした、馬防柵が再現されています。
「どうする家康」の展開と呼応するかのように、先日、ブラタモリ種子島編が放映されています。
種子島は、ポルトガル人による鉄砲伝来の地。鉄砲隊の歴史は、ここから始まりました。
種子島のすぐ南を黒潮が流れ、奄美や琉球から、島民ひとりひとりを丁寧に埋葬する文化が伝わっています。
種子島の最南端、門倉岬。黒潮の流れに乗って、ポルトガル人を乗せた漂流船が到着した、鉄砲伝来の地です(1543年)。
長篠・設楽原の戦いは、1575年の出来事でした。
黒潮の流れだけでは済ませないのがブラタモリ。現在も口永良部島の火山活動を引き起こし、1500~1400万年前に冷え固まって屋久島を作ったのが、地下のマグマ。
マグマは鉄分を生み、黒潮の流れに乗り、かつては海底の堆積岩だった種子島に鉄がもたらされたと考えられています。この鉄が、火縄銃の製造に用いられました。
信長を勝たせたのマグマと黒潮、と言えるかも知れません。
火縄銃は、従来の弓矢などの武器よりも射程が長く、威力も強かったため、戦国時代の戦を一変させました。
しかし、ヨーロッパで発明されたばかりの火縄銃は、敵を約50mまで引きつけなければ、敵への命中は難しかったとされます。
長篠・設楽原の戦いでは、(背後に陣を構えた信長が見物に来た)徳川家康本陣とは目と鼻の先の、写真の連吾川まで武田軍を引き付ける必要がありました。
「どうする家康」でも描かれた、織田軍が採用したと言われる鉄砲三段撃ち。準備に時間を要する火縄銃を三交代で一斉に放つ手法です。
ところが、現在の競馬で、サラブレッドは長い距離を走っても、100mを12秒程度、つまり50mなら6秒前後で駆け抜けます。戦国時代の日本の在来馬は、50mだけなら4秒で駆け抜けたという実験があります(NHK番組「歴史探訪」)。
この距離感で鉄砲三段撃ちが間に合うのかは、現在も研究が続けられています(下記)。
NHK番組の歴史探偵「長篠の戦い」では、一斉に撃つことで待ち時間が長くロスが多い三段撃ちではなく、弾を放った打ち手の場所に、準備ができた打ち手が入れ替わるように入るという新説が紹介されています。
また、「どうする家康」で描かれるように、諜報戦に長けた武田軍が、鉄砲を知らなかったというのもおかしな話で、武田軍も鉄砲隊を持っていたが、球数等に限界があったという説を紹介しています。武田軍は、大阪の堺や長崎での交易が難しく、鉛が手に入らなかったと説明されていました。
武田は金山を持っていましたが、高価な金を銃弾に使う訳にはいきません。
田畑なき武田信玄を支えた身延の金山はいまどこに?
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