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アイヌの娘とアイヌじゃない父 アイヌ語復興への確執と葛藤

山田裕一郎フィルムメーカー

北海道の先住民族であるアイヌ。アイヌ語は今、消滅の危機にさらされている。母語として話す人は一人もいない。そんななか、YouTubeを使ってアイヌ語講座を発信する一人の大学生がいる。関根摩耶さん(21歳)だ。父の健司さん(49歳)は長年アイヌ語の復興に尽力してきたが、兵庫県出身でアイヌではない。ともに復興に取り組むものの、摩耶さんが幼いころからぶつかり合ってきた。父娘の葛藤を追う。

★「極めて深刻」な状態のアイヌ語

2009年、国際教育文化機関(ユネスコ)は、消滅危機にある言語の中でアイヌ語は「極めて深刻」な状態であると認定した。アイヌ語が話せたのは明治生まれの人たちまでで、それ以降、「覚えてもいいことはない」と家庭で教えることはなくなったという。長い差別の歴史のなかで、アイヌ語は急速に失われていった。自在に使って会話する風景はもうない。

今年7月には、北海道白老町にアイヌをテーマにしたウポポイ(民族共生象徴空間)が開業。アイヌの少女が主人公の漫画『ゴールデンカムイ』の人気や、阿寒湖のアイヌコタンが舞台の映画『アイヌモシリ(リは小文字)』がトライベッカ映画祭で審査員特別賞を受賞するなど、アイヌ文化へ注目は集まる。アイヌ語への関心も高まりつつあるが、失われた言葉を取り戻すにはまだまだ道のりは遠い。

★YouTuber女子大生とアイヌ語講師の父

そんななか、関根摩耶さん(21歳)は、YouTubeを使ってアイヌ語講座を発信している。摩耶さんは現在、慶應義塾大学の3年生で、アイヌ語やアイヌ文化を学ぶゼミに所属している。摩耶さんは、人口のおよそ75%がアイヌにルーツがある北海道平取町二風谷の出身で、本人もアイヌの血を引いている。大学1年生の時に始めたYouTubeの「しとチャンネル」は、現在までに20万回以上再生されている。

長い差別の歴史のため、アイヌであることを隠す人もいるなか、摩耶さんは隠すことなく積極的に発信を続ける。アイヌ語を伝えていくためには、重要な存在だ。

摩耶さんの父、関根健司さん(49歳)も、復興に尽力している。二風谷アイヌ語教室・子どもの部の講師として活動し、今年からは平取町教育委員会でアイヌ語のスペシャリストとして働いている。健司さんとアイヌ語との出会いは、偶然のものだった。

健司さんは兵庫県の出身で、アイヌではない。「21年前に旅行でやってきて、そのまま居ついたって感じです」と健司さんはいう。バイクで日本一周の旅に出かけ、たまたま立ち寄ったのが二風谷だったのだ。そこでアイヌの血を引く真紀さんと出会い結婚。そして、摩耶さんが生まれた。「学歴もなく、仕事もないので、初めは親戚に紹介してもらって働いていました」と健司さん。造園業や林業などの仕事を15年ほど続けながら、コツコツと一生懸命に学んでいたのがアイヌ語だ。

アイヌの娘とアイヌではない父による取り組みは、大きな注目を集めている。

★アイヌから離れたかった時期と、父親への反抗期

父と娘のこれまでの関係は決して平坦なものではなかった。

子どもの頃の父と娘はとても仲がよく、どこへ行くにもいつも一緒だった。健司さんの指導もあり、摩耶さんが小学校2年生のときにはアイヌ語弁論大会・子どもの部で優勝。アイヌ語の復興へ向けて、明るく光る希望の星だった。しかし、摩耶さんが小学校の高学年になると、仲の良かった親子の関係は急速に悪くなっていく。

摩耶さんの母で、アイヌ工芸家の真紀さんは、「健司さんは厳しい人で、二風谷でもこんなに厳しい人はいないっていうくらい厳しかった」と話す。摩耶さんも「10歳くらいには、反抗期になっていましたね」と振り返る。二風谷では手仕事が盛んで、周囲の大人たちは「勉強なんてする必要がない」ということが多かった。そんななか、教育熱心で厳しい父に摩耶さんは反発していったという。

アイヌ語弁論大会で優勝した後、摩耶さんに対する周囲からの期待は自然と高まっていた。「大きくなったらアイヌのどんなことをするの?」という何気ない質問も、小学生の摩耶さんにはプレッシャーになっていったという。「アイヌから少しだけ離れてみたくなった時期と、父親への反抗期が重なった」と当時を振り返る。

早く家を出たい気持ちが強くなった摩耶さんは、中学校から一人で地元を離れ、高校は札幌へ進学。娘が父と話さない期間は6年にもなった。アイヌ語の未来どころか、自分たちの未来に対して「私たち家族はどうなっていくんだろう?」と真紀さんは涙を流した。

★ルーツを持つ娘と、持たない父の雪解け

父と娘の関係がようやく修復に向かったのは、摩耶さんが高校3年生のことだ。

二風谷の人たち全員がアイヌ語で話をするような未来は、誰も思い描けない。「父が一人で頑張っているように感じた」と摩耶さんは言う。他人にも、自分にも厳しい父が、孤独にアイヌ語と向き合っている姿を見て、摩耶さん自身も再びアイヌ語を学び始めた。

摩耶さんは、大学進学を機に関東に引っ越した。1年生の時、札幌のラジオ局でアイヌ語講座の講師を務めることになり、健司さんが支援研究者という形で協力をした。ラジオの収録のために北海道に帰るたび、父と一緒に過ごす時間が増えたという。

このことがきっかけとなり、一緒に出かけたり、会話をしたりするようになった。

もちろん、全てが解決したわけではない。健司さんは「中途半端に真剣にやってるフリが一番腹立つ」と、摩耶さんのYouTubeの投稿頻度にも口を出す。摩耶さんも「YouTubeに関する感覚とか、アイヌ語を載せるという感覚も、お父さんとは違う」と応酬。そして父と娘に、険悪な空気が流れる。

真紀さんは、「健司さんは、アイヌである摩耶にアイヌ語をやってほしいと思っている」と話す。ルーツを持たない健司さんよりも圧倒的に活動しやすいからだ。真紀さんはこう言って笑う。

「自分にできないことを本当は摩耶にやってほしい。アイヌである摩耶ならできることがあると思う。でも2人は似ていて、いつもぶつかる。父ちゃんが期待している通りに摩耶がなって、2人がいい感じになるのは死ぬ前ぐらいじゃない?」

摩耶さんは言う。

「私にしかできないものがあって、でも私がそれを本気でやろうとしないところに父はムカついているんだと思います。でも私にとっては、いろんなことのバランスがある。アイヌのことを楽しいって思えるのは、地域のみんなや親がアイヌのことを楽しんでいたからなんですよ。プレッシャーに感じずに、アイヌとして楽しんで生きられるってたぶん幸せなことなんですよね」

今も時にぶつかり合う父と娘。だが取材を通して、健司さんはこう話した。

「最終的には一人で生きていけるという力。俺が今死んだとしても、きっと生きていけるでしょうね。後はもう、望むことはないです」

クレジット

監督・撮影・編集 : 山田 裕一郎
プロデューサー  : 前夷 里枝

フィルムメーカー

北海道出身のフィルムメーカー。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校で実験映画を学び、同大学バッファロー校大学院では、ドキュメンタリーとダンス映像の制作を学び、2010年に帰国。2011年に北海道でヤマダアートフィルムを立ち上げる。主に、大学や専門学校、病院などの広報動画を制作しながら、短編ドキュメンタリー映画を制作。2017年には東京都主催Beyond Awardにて、車いすソフトボールを取材した作品が優秀賞と観客賞を受賞。2018年には、札幌国際短編映画祭で「Choreographer/平原慎太郎の創作」がアミノアップ北海道監督賞を受賞した。大学や専門学校で映像制作論の非常勤講師を務める。

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