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「奇跡のまちづくり」ガーデニングの聖地・恵庭を生んだ1人の主婦の挑戦

山田裕一郎フィルムメーカー

北海道恵庭市は「花のまちづくり」のトップランナーとして、いまや全国に知られている。札幌近郊の「何もない」ベッドタウンをここまで育て上げた原動力となったのは、35年前に一家5人でこの地へ引っ越してきた主婦・内倉真裕美さん(69)。3人の子どもたちの故郷として誇れるような街にしたい。そう思った内倉さんが思いついたのが「花のまちづくり」だ。近隣住宅の「オープンガーデンコンステスト」から始まった活動は、やがてたくさんの仲間や行政を巻き込んで、徐々に大きな花を咲かせていく。2022年には国内最大級の花と緑の祭典のメイン会場に選ばれ、30日の期間中に市の人口の5倍近い34万人が訪れた。研究者に「奇跡のまちづくり」と評価された内倉さんたちの活動を追った。

◆新興住宅地にやってきた1人の主婦

札幌市と新千歳空港の間にある恵庭市は、多くの人にとって電車や車でただ「通り過ぎるまち」だった。花苗生産は盛んだったが、「花のまち恵庭」と呼ばれるようになった最大の理由は、恵み野地区の住民が主体となって始めた「花のまちづくり」活動によるものだ。ほかの花のまちとは違い、恵庭には観光用の花畑がたくさんあるわけではない。きれいに手入れをされた個人の庭を見て回る「オープンガーデン」の豊かさが恵庭の特徴だ。市は2020年に公的施設として「花の拠点はなふる」をつくったが、行政の背中を押したのはあくまでも市民の活動だ。

内倉真裕美さんが夫と3人の子どもたちと恵み野に引っ越してきたのは1988年。開発間もない新興住宅地で、少し前までは雑草が生い茂る休耕地だった。2人の息子の転校手続きのために小学校へ行った時に聞こえてきたのが、「恵み野は何もないまちだから」という保護者同士の会話だった。

それを聞いて、内倉さんの心は躍った。「何にもないということは、自分たちで作り上げていけると思ったんです。地域のみんなとお祭りのように、このまちをこんな風にしていこうというものができたら、きっと面白いだろうなって」。子どもたちが誇れる故郷を作ろうと心に決めたものの、それ以外には信号機すらない土地だった。

◆「そうだ、花のまちにしよう」

内倉さんが花と出会ったのは、引っ越しから3年がたったころのことだ。あるスライド写真を見た。きれいな花で飾られた住宅の庭が写っていた。恵庭市の職員や花苗生産者らが、ニュージーランド・クライストチャーチを視察した際に撮影したものだった。美しさに心を奪われた内倉さんは、自分が撮ったわけでもないのにたくさんの人に見せて回った。これが、内倉さんと恵庭の未来を大きく変えることになる。内倉さんの心は決まった。「そうだ、花のまちにしよう」

恵み野の新しい住宅には、それぞれ庭があった。日本庭園風もあれば家庭菜園もあった。ガーデニングという言葉はまだ一般的ではなかったが、庭を花で飾る家も少なくなかった。

一度決めたら行動が早いのが内倉さんだ。クライストチャーチが写真によるガーデンコンテストによってきれいな町並みを維持していると聞くと、すぐにまねをした。1991年から「恵み野フラワーガーデニングコンテスト」を開催。「公募方式では参加するのがいつも同じ家になるので、3年目からは勝手にまちを回って、写真を撮って、勝手に表彰することにしたんです」。内倉さんは大量に撮影した写真を、夏祭り会場などの人が多く集まる場所に展示した。人だかりができるほどの関心を集め、自分でもやってみたいという人が現れ始めた。

ガーデンコンテストをきっかけに、自宅の庭を公開する「オープンガーデン」をする人が増えていった。恵み野の活動は評判となり、1995年に「花のまちづくりコンクール」で建設大臣賞、96年には「北海道花と緑のまちづくり賞」を受賞する。98年には女性誌「ミセス」に花のまちとして16ページにも及ぶ特集が組まれ、恵み野の主婦たちがガーデナーとして紹介された。雑誌の効果は絶大で、恵み野には花をみたい人が全国から訪れるようになった。

◆花のまちづくりの起こり

恵庭の花のまちづくりの特徴は、市民が楽しみながら主体的に活動してきたところにある。その中心にはいつも内倉さんがいる。ボランティアの「カリカリ隊」で定期的に除草作業をしたり、オープンガーデンを訪れる人を案内したりすることもある。現在は観光協会が作っている花マップも、当初は内倉さんが手作りをしたものを配っていた。

内倉さんの娘、浅野小百合さんは「母はバイタリティーの塊」と話す。「一般的にお花関連の活動をしているのならば、それが仕事だと思うんですけど、母はボランティアなんですよね。でも、ボランティアという言葉もしっくりこない。ただの普通のおばさんなんですよね」

専門家からの評価も高い。「内倉さんを中心とした恵庭の花のまちづくりは、奇跡のまちづくりと言えるでしょうね」と話すのは北海道大学農学部の愛甲哲也准教授だ。1998年に恵み野地区で住民の庭づくりを調査して以来、恵庭のまちづくりに詳しい。

「恵み野の花のまちづくりのすごいのは、30年間も続いているところ。恵み野と同じ頃にガーデニングやオープンガーデンで有名になった地域はいくつかあったものの、恵み野のようにずっと走り続けているところはあまり見たことがない」と愛甲さん。

「内倉さんはいつも楽しそうに、超人的なパワーで活動しています。友達がいっぱいいて、わいわいとやっているので周りの人は巻き込まれながら、ついていくんです。みんながやらされているのではなく、自分のこととしてやっている」

◆みんな辞めてしまった

もちろん、すべて順風満帆だったわけではない。人気に目をつけた旅行会社から、「観光バスのツアーに組み込みたい」との提案が内倉さんに寄せられた。静かな住宅街に観光バスがやって来るとは、だれも考えていなかった。

内倉さんが自らつくった「花づくり愛好会」のメンバーに相談すると、「市に相談をした方がいい」ということになった。だが、市役所はつれなかった。「当時の恵庭市には観光を担当する部署がなかったので、自分たちの問題は自分たちで解決してくださいと突き放されてしまったんです」。それを愛好会のメンバーに伝えると、思わぬことになった。メンバーが次々と愛好会を辞めていったのだ。「恵庭市ができないことは自分たちもできないと思ったんでしょうね。自分を含めて2人しか残らなくて。どうしてこんなことになっちゃうんだろうなと正直思いましたよね」

◆活動を広げる内倉さん

周囲から人がいなくなっても、内倉さんの花のまちづくりへの情熱は消えることはなかった。新しい仲間を見つけるため、市内の図書館で年間26回のガーデニング講座を開いた。講座は盛況で、バラの回では立ち見が出るほどの人気となった。

内倉さんは、町内会など地域の11団体に花のまちづくりの推進を呼びかけ、新しい花のまちづくりの組織を作った。この団体からの働きかけがきっかけとなり、恵庭市は1998年に「花と緑の課」(現・花と緑の観光課)を設けた。「振り返ると市民の活動に対してきちんと行政が後押ししてくれているのがわかるんです」と内倉さん。市民と行政が一体となって活動を始めたことにより、内倉さんの花のまちづくりは力強さを増していく。

2000年以降、内倉さんは活動範囲を恵庭市から北海道全域にまで広げた。2001年に北海道のオープンガーデンを支援する任意団体として「ブレインズ」を、2007年には北海道を花で元気にするためのNPO法人「ガーデンアイランド北海道」などを設立していった。

◆ガーデンフェスタ北海道2022の開催

2022年6月から1カ月間、国内最大級の花と緑の祭典「全国都市緑化フェア(ガーデンフェスタ北海道2022)」が恵庭市をメイン会場として開かれた。これまで政令指定市や県庁所在地などの大きな都市でしか開催されてこなかったイベントが、人口7万人の小さな市をメインに開かれたのは異例のことだ。30日の期間中に訪れたのは約34万人。経済波及効果は59億円に上ったという。30年に及ぶ内倉さんの活動の集大成とも言えた。

内倉さんはかつて、「あなたのやっていることは、人を巻き込むからダメなんだ」と言われたことがある。「でも、人を巻き込まなければ、まちづくりにはならない」。そんな思いで活動を続けてきた。

「私は30年以上、花の活動を続けてきたけれども、その長さっていうのを全然感じないんだよね。楽しいことしかなくって。ずっとこれから先も花に関わっていくっていうことは、楽しいことが続いていくのかなって。なんか幸せいっぱい」

フィルムメーカー

北海道出身のフィルムメーカー。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校で実験映画を学び、同大学バッファロー校大学院では、ドキュメンタリーとダンス映像の制作を学び、2010年に帰国。2011年に北海道でヤマダアートフィルムを立ち上げる。主に、大学や専門学校、病院などの広報動画を制作しながら、短編ドキュメンタリー映画を制作。2017年には東京都主催Beyond Awardにて、車いすソフトボールを取材した作品が優秀賞と観客賞を受賞。2018年には、札幌国際短編映画祭で「Choreographer/平原慎太郎の創作」がアミノアップ北海道監督賞を受賞した。大学や専門学校で映像制作論の非常勤講師を務める。

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