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「死ぬかもしれない」眠れぬ夜をこえて 骨髄移植の厚い壁を越えるために動く妻と、見守る夫の葛藤

山田裕一郎フィルムメーカー

2020年秋、北海道恵庭市の白﨑亜紀子さん(49)は、体調不良で受診した病院から渡された思いもよらぬ「病状説明記録」にサインを求められた。病名は「急性骨髄性白血病」。「場合によっては1週間以内に死亡する可能性もある」とも書かれていた。病室で不安な日々を送ったが、幸いにも抗がん剤治療が効いて7カ月後に退院できた。一方で、白血病の有力な治療法である骨髄移植を受けられずに、多くの患者が苦しんでいることも知った。移植を望む患者や家族の前には、厚い壁が立ちはだかっていたのだ。退院した亜紀子さんは再発の不安を抱えながら、この壁を乗り込えるための活動に乗り出した。

◾生存率は「20%から30%」 目の前が真っ暗に
恵庭市で地域コミュニティーFMのパーソナリティーをしていた亜紀子さんが体調の変化に気がついたのは、受診した数カ月前のことだ。「歩いても疲れるし、しゃべっても疲れを感じていました」。40代の後半に差しかかり、年齢からくるものだろうとやり過ごしていた。

自宅近くの病院で検査を受けたところ、「白血球の数値が、検査ミスかと思われるくらい異常です」と伝えられた。そのまま病院の車で血液内科のある札幌の病院へ。その時はまだ、体調よりもサンダル履きで来てしまったことや携帯電話の充電が残り少ないことを気にしていた。

いくつもの検査を受けると、その日のうちに入院が決まった。翌日、夫の誠治さん(48)と聞いた医師の説明は、予想もしないものだった。急性骨髄性白血病であること、抗がん剤治療を行うこと。「この病気ってどのくらいの人が治るんですか?」。亜紀子さんの問いに、医師はこう答えた。「20%から30%ぐらいです。それ以外は亡くなっている病気です」。その途端、体から力がどんどん抜けていくのを感じた。

「子どもたちが大人になって年を取っていくのを見ながら、私も夫も年をとっていくんだって何となく思っていたのに」。昨日まで、疑いなく続いていくと思っていた未来が、あっという間に終わりを告げようとしている現実に、悲しいという感情すら追いつかない。「真っ白というよりは真っ暗」だったと亜紀子さんは振り返る。

◾私はどうなるの? 眠れぬ夜に襲う不安
病室は夜10時には消灯となるが、亜紀子さんは眠れぬまま天井を見つめていた。「これから自分は、そして家族はどうなっていくんだろう?」。亜紀子さんは、前向きな気持ちで治療に向き合ってきた。抗がん剤により髪の毛がどんどん抜けていった時も、「入院中だから、どうせ誰にも会わない」と気に留めることはなかった。しかし、死ぬかもしれないという現実に向き合うことは、何よりもつらかった。「泣いても泣いても何も現実は変わらないんです。本当に、もがくほどつらかった」と亜紀子さん。夜になって天井を見ながら不安に包まれてしまうのだ。

同じ病で入院している人たちが、こうした不安を抱きながら眠れない夜を過ごしていることは簡単に想像できた。「みんな早く家に帰って家族と過ごしたいし、治療ができるならば、つらくてもしたいだろうな」。このまま抗がん剤治療の効果がなければ、次の治療法となる骨髄移植を検討せざるを得ない。骨髄移植は、ドナー不足のため希望する患者が必ずしも受けられるわけでないことは聞いていた。そんな時、ドナーへの公的な助成制度があることをネットで知る。

公益財団法人日本骨髄バンクによると、日本では毎年約1万人が白血病などの血液疾患を発症している。骨髄バンクに登録している患者のうち移植を受けられるのは約6割で、移植件数は年間1200件ほど。医学的な難しさに加えて大きな障害になっているのが、ドナーに強いられる負担だ。骨髄や末梢血幹細胞を提供するには入院し、10日ほど仕事や授業を休まなければならず、特に若いドナーには経済的な負担が大きい。それを補うのが骨髄ドナー助成制度だ。例えば東京都江戸川区は、ドナーに1日2万円、ドナーが働く事業所にも1日1万円の助成金を出している。

日本骨髄バンクの集計では全国で902自治体が助成制度を導入し、その数は少しずつ増えているという。ただ、北海道には助成制度がある自治体はない。「多くの人が必要としているのに、なぜ?」。こう感じた亜紀子さんが思い立ったのが、入院中に励ましてくれたママ友や職場の元上司らとともに助成制度を広める活動だ。

血液疾患の治療では、献血による輸血や、骨髄の中で血球や血小板のもととなる造血幹細胞の提供は、患者の命をつなぐためにとても重要だ。ただ、これらはいずれもドナーのボランティア精神に委ねられており、経済的負担もその中に含まれると一般的には考えられている。札幌北楡病院の造血細胞移植コーディネーター山﨑奈美恵さんは、ドナーの負担を少しでも減らすため、ドナー助成制度の導入を強く求めている。「骨髄移植に協力したいという思いがありながらも、自分や家族の生活があり、有給休暇のない職種の人にとっては経済的な理由のため提供を断念するケースもある」と山﨑さん。「ドナーにとっても家族や自分の生活を守ることは大切なこと。自己犠牲だけに委ねるのではなく、助成制度などいろいろなきっかけがあっていいと思う」

◾退院し精力的な活動 「自分を助けるためかも」
抗がん剤で症状が治まった亜紀子さんは、入院から7カ月後の21年3月10日、退院を迎えた。さっそく結成したのが、「私たちのまちで骨髄ドナー助成制度を考える会」(通称わたまち)だ。まずは恵庭市に助成制度の導入を求める要望書を提出したところ、市として骨髄移植を普及させるためのセミナーを共催してくれることになった。11月に開かれた2回目のセミナーには約50人が参加。亜紀子さんは自らの闘病体験を語り、ドナー助成制度はじめ社会の仕組み作りの必要性を参加者に訴えた。

亜紀子さんをこの活動に駆り立てた思いはどういういうものか。「自分と同じような人たちに何かできるんだったら、それはやるべきだと思いました」と亜紀子さんは説明する。「でも、あの時の一番つらかった自分を助けるためにやっているのかもしれない」

◾移植への壁を越えても
骨髄移植への壁を乗り越えたとしても、亡くなってしまう人もいる。11月16日、亜紀子さんは市内にあるカレー店「リスボン」にやってきた。

この日は、やはり急性骨髄性白血病だった店主の相原真さんの一周忌。相原さんは移植から約1カ月後に息を引き取った。「何も変わらないで一周忌まで来ちゃって」。相原さんの父、哲弘さん(75)は、こう言って肩を落とす。親子で切り盛りしていたカレー店は、もう営業していない。

ドナー助成制度を考える会の話を聞いた相原さんが、亜紀子さんに連絡したのは2021年9月。亡くなる2カ月前のことだ。亜紀子さんは、一時退院中の相原さんとファストフード店で会った。骨髄移植を受けることになっていた相原さんは、その経験を伝えたいと話したという。

「あの子は率先して活動をしようとしていたから」。母の敏子さん(73)は、闘病中も将来の活動に意欲を見せていた息子の姿を思い出す。敏子さんは、「これからもできることがあれば協力したい」と亜紀子さんに告げた。

相原さんのSNSの写真には、亜紀子さんが見たものと同じ病院の天井が写っていたという。不安で眠れない夜に見続けたあの天井だ。「自身の経験を役立てたいという相原さんの思いと一緒に活動をしていきたい」と亜紀子さんは話す。

亜紀子さんたちの積極的な活動もあって、恵庭市や市議会では助成制度などの導入に向けた議論が始まったという。張り切る亜紀子さんだが、一方で夫の誠治さんはそんな妻の姿に少し不安を感じていた。急性骨髄性白血病には、再発の可能性があるからだ。

◾再発への不安抱えつつ
誠治さんには、闘病中の忘れられない体験がある。入院して1カ月が過ぎたころ、「抗がん剤治療がある程度効いているので、骨髄移植はしなくてもよさそうです」と、担当医から告げられた。さらに半年を過ぎたころには、「あと1カ月治療を続ければ、退院できるかもしれない」という期待が出てきた。

喜んだのは、つかの間だった。ある日、一時退院のため車で迎えに来た誠治さんは、亜紀子さんとともに医師から新たな説明を受けた。「実はまだがん細胞は消えていません。もう1回の治療をして効果がない場合は、移植の可能性も出てきます」。もうすぐ退院ができると信じていた中で、2人は言葉を失った。さらに他の病気の可能性もあるといい、その場合には「移植をしても4割の方は亡くなっています」と告げられた。つらい抗がん剤治療に耐え、ようやく見えてきた明るい未来が、再びあっという間に暗闇に包まれた。入院当初よりも、この日のことが夫婦にとっては大きなショックだったという。

自宅へ向かう途中、赤信号で停車すると、誠治さんは声を上げて泣き始めた。「こんなに頑張ってるのに、何で亜紀子なんだ」。2人とも涙が止まらなくなった。いきなり訪れた先の見えない闘病生活へのおそれ。夫婦とも、肉体的にも精神的にも追い込まれていた。

亜紀子さんは、退院後も月に1度は検査のため病院に通う。いまのところ血液の数値に異常はない。だが、不安が消えてなくなったわけではない。「(再発するかどうかの)目安は2年とか5年と言われていて、まだ2年にも達していないので、常に病気と向き合っているという感じです」と誠治さんは話す。

11月7日。白﨑家では、亜紀子さんの49回目の誕生日を家族で祝った。誕生ケーキには、太いろうそく4本と細いろうそく9本。亜紀子さんは、笑顔で火を吹き消した。

「来年の抱負は?」と長男に聞かれた亜紀子さん。「来年の抱負は……」と言いかけた後、少し間をあけてこう答えた。「いや、まずは50歳を迎えられるようにしたいと思います」

病気になる前から仲のよかった家族は、つらかった闘病をへて、お互いをさらに思いやるようになっていた。

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本作品は【DOCS for SDGs】にも掲載されております。
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クレジット

監督・撮影・編集:山田裕一郎
プロデューサー :前夷里枝
記事監修    :国分高史・中原望

フィルムメーカー

北海道出身のフィルムメーカー。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校で実験映画を学び、同大学バッファロー校大学院では、ドキュメンタリーとダンス映像の制作を学び、2010年に帰国。2011年に北海道でヤマダアートフィルムを立ち上げる。主に、大学や専門学校、病院などの広報動画を制作しながら、短編ドキュメンタリー映画を制作。2017年には東京都主催Beyond Awardにて、車いすソフトボールを取材した作品が優秀賞と観客賞を受賞。2018年には、札幌国際短編映画祭で「Choreographer/平原慎太郎の創作」がアミノアップ北海道監督賞を受賞した。大学や専門学校で映像制作論の非常勤講師を務める。

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