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「仕事はゼロ。これから増えていくしかない」――昭和に消えた「馬搬」で起業した夫、生活が不安な妻

山田裕一郎フィルムメーカー

「馬搬(ばはん)の仕事は、今はゼロだから、これから増えていくしかない。もし増えなかったら、他の仕事をしてでも稼いでいく」。北海道で、「馬搬」という仕事を始めた男性がいる。「馬搬」とは、馬の力を利用して、山中で伐採した木を運び出す作業だ。かつては日本全国で行われていたが、トラクターやブルドーザーなど大型機械が使われるようになり、その姿は消えていった。なぜ今、馬搬で起業することを決心したのだろうか。「森に優しい。こんな林業もありなんだ」。背景には、山林の自然環境や生態系の保全への思いがあった。

●「自然に優しい」馬搬にひかれて

「馬は一度に300〜500キロの丸太を運ぶことができます。移動する距離は短い時は数十メートル、長い時には300メートルくらい。山の傾斜や地面の状態、移動する距離に応じて、丸太の重さを変えていきます」

そう話すのは、西埜将世さん(40歳)。2017年から妻と2人の娘とともに北海道厚真町で暮らし、「西埜馬搬」を営んでいる。

馬搬は、馬の力を利用して、山中で伐採した木を運び出す作業のこと。手綱は補助として使い、「行け」「バック」といった言葉、声のトーン、態度によって馬を操り、大きな丸太をひかせる。人と馬との信頼関係がとても大切な仕事だ。

馬搬に詳しい岩手大学森林科学科の立川史郎教授によると、馬搬は明治時代に入ってから馬産地である北日本を中心に盛んに行われるようになったという。第二次世界大戦頃まで続いていたが、林業の機械化が始まった昭和30年頃に転機を迎える。トラクターやブルドーザーなどの大型機械が林業で使われるようになり、昭和40年以降には急速に衰退していった。

「危険な仕事であっても、かつて馬搬が盛んだったのは稼げる仕事だったからです」と一般社団法人馬搬振興会の代表理事である岩間敬さんは語る。日本の森は斜面が多い上に、丸太を運ぶ馬が暴れることもあるため、危険でお金にならない馬搬は姿を消していった。

馬搬に関する論文を執筆し、2019年に日本森林利用学会で優秀賞を受賞した坂野昇平さんは、こう言う。

「馬搬を生業としていた人は、平成初期にはほとんどいなくなりました。現在、馬搬ができる人は多く見積もっても全国に十数人しかいないです。かつてのように林業家として馬搬を生業にしているのは、西埜さんと馬搬振興会の岩間さんの2人だけだと思います。」

西埜さんはなぜ、馬搬にひかれたのだろうか。

「馬が森で働く姿を見に、たくさんの人が来てくれるんです。子どもたちの驚く声や笑い声が聞こえるなかで働くのはいいなと思って」

そう西埜さんは話す。馬搬は、自然保護や生態系の保全を可能にするという。

現在の林業では、大型の林業機械が使われている。現場の山林には、重機が移動する作業道をつくらなければならない。そのため、多くの木が伐採され、山の斜面が削られる。重機が何度もその道を通るので、土は重みで締め付けられ、跡も残る。一方、馬は、どんな場所でも移動でき、険しい斜面でも自由に昇り降りできる。馬のフンは自然の循環のなかに組み込まれ、もちろん排気ガスは出ない。馬搬は圧倒的に自然に優しいのだ。

西埜さんは、大学卒業後、ネイチャーセンターで自然体験活動を教える仕事に従事していた。結婚を機に、林業会社に転職。そこで壁にぶつかった。重機を使ってどんどん木を切り、工事現場のような騒音を立てる林業現場と、会社での人間関係に馴染めなかったのだ。3年間働いたものの、仕事をやめたい思いが高まり、眠れなくなっていった。

その頃に、たまたまYouTubeで目にしたのが馬搬だった。静かな森の中で、人と馬が一緒に働く「森に優しい」光景を見て、「こんな林業もありなんだ」と思った。2011年3月、西埜さんは林業会社を退職し、観光牧場で馬搬の仕事を始めた。

●馬搬で家族は生活していけるのか

観光牧場では6年ほど働いたが、経営体制の変化で雇用体系が何度も変わった。「これまでのように給料は出ないから」と言われ、馬搬で独立することを考え始める。

「馬搬の仕事は、今はゼロなんだから、これから増えていくしかない。もし増えなかったら、他の仕事をしてでも稼いでいこう」

そう西埜さんは思った。林業会社から観光牧場への転職、観光牧場の退職、どちらの節目の時も、妻は臨月を迎えていた。妻の朋子さんは、出産を控えたタイミングでいつも収入がなくなる夫に不安を覚えた。朋子さんは言う。

「(夫は)『何とかなるよ』って。『今までだって何とかなってきたでしょう?』。『いや、私が何とかしてきたんだよ』って。その時は両方の親に『もうダメかも』と初めて相談しましたね」

西埜さんにもプランがなかったわけではない。知人の紹介で応募した北海道厚真町の起業型地域おこし協力隊に、馬搬で起業を目指す西埜さんが選ばれたのだ。ハスカップが名産の厚真町は人口4,400人ほどの小さな町。厚真町に移住して、厚真町で起業することを条件に、事業の土台ができるまでの3年間、経済的な支援が得られることになった。

2017年、そうして西埜さん一家は、北海道の大沼から厚真町に引っ越した。

仕事のパートナーとして、ばん馬の「カップ」を購入。カップはばんえい競馬の能力試験を受けていたが、落第。熊本で馬刺しになる運命だったが、西埜家に買われて、馬搬の馬となった。値段は170万円。馬肉の値段を元に計算されていた。西埜さんは、カップのトレーニングや、生活環境の整備に時間を費やした。

「馬が怪我や病気を教えてくれるわけではないので、こちらから気がついてあげないといけない」

そう西埜さんは言う。機械であれば故障したパーツを新しいものに取り替えれば修理することができるが、生き物の場合にはそうはいかない。カップの怪我や病気は、仕事上の大きなリスクだ。

一般的な林業のように、搬出した木材の総量でその対価を決めると、作業効率の悪い馬搬では利益を生むことができない。環境問題への意識が高く、馬搬の価値を理解した相手との仕事でなければ、仕事として続けていくことは難しい。西埜さんは言う。

「機械と比べるとはるかに効率の悪いことをやっているわけだから、ただ木材の搬出というだけではなく、環境に配慮した森づくりをしたいという理由で仕事を依頼してくれていると思う」

現在、馬搬を依頼する企業や行政は、山林の自然環境や生態系の保全することを第一と考え、豊かな森を次の世代に残していくことに価値を見出している。例えば、アイヌ文化の発信地の一つ、北海道平取町は、森の再生プロジェクトに馬搬を活用しはじめた。シマフクロウは、平取町周辺の森に生息し、村の守り神として崇められてきた。しかし、1970年頃にはその姿を見られなくなっている。高度経済成長期の森林伐採で、生息環境を奪われたからだ。シマフクロウが棲む、かつてあった豊かな生態系の森を再生させるプロジェクトには、間伐材の搬出も重要な作業となる。そこで馬搬が使われているのだ。環境問題に対する意識の高まりによって、馬搬の可能性も広がっていく。

●地震で家が半壊。これからの西埜家は?

移住して1年半が過ぎた2018年9月、北海道胆振東部地震が発生する。厚真町は最大震度7を記録。家族は怪我もなく無事だったが、暮らしていた築50年の家が半壊した。西埜家は、現在も厚真町から貸し出されたトレーラーハウスで暮らしている。

夫の仕事に不安を感じていた朋子さんにとって、この地震は転機となった。

「家がものすごく揺れた時、いつものんびりしている夫が『家にいたら危ないから外に出よう』と言って、まだ薄暗いなかでテントを張って、火を起こし始めたんです。この人についていけば、生き延びられるんだって、その時は思いました。今ある幸せに感謝してついていこうと思って、不安や不満が少し消えたような気がします」

地域おこし協力隊での3年間の任期が終わり、2020年からは西埜馬搬は独り立ちした。子どもたちも、小学5年生と2年生。「馬を飼うのも楽しいし、いい仕事だと思う」と次女は言う。

馬搬の仕事がない時には、植林や下刈といった造林作業、森林調査、ワイン園の馬耕など、さまざまな仕事をしている。どんなことでも断らずに何でもやる夫のことを、妻は今では「尊敬している」と言う。

4年が経った今、西埜さんはこう語る。

「まだ不安定ではあるけど、仕事は少しずつ増えてきました。馬と一緒に働くことで、一つの家族の生活が成り立つんだ、って周りの人に思ってもらえたらいい。このまま馬搬という仕事をずっと続けていきたいと思っています」

今年の12月には、トレーラーハウスを返さなければいけない。カップが運んできた木を使って、新しい家を建てるのが今の目標だ。

クレジット

監督・撮影・編集 : 山田 裕一郎
プロデューサー  : 金川 雄策・高橋 樹里

フィルムメーカー

北海道出身のフィルムメーカー。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校で実験映画を学び、同大学バッファロー校大学院では、ドキュメンタリーとダンス映像の制作を学び、2010年に帰国。2011年に北海道でヤマダアートフィルムを立ち上げる。主に、大学や専門学校、病院などの広報動画を制作しながら、短編ドキュメンタリー映画を制作。2017年には東京都主催Beyond Awardにて、車いすソフトボールを取材した作品が優秀賞と観客賞を受賞。2018年には、札幌国際短編映画祭で「Choreographer/平原慎太郎の創作」がアミノアップ北海道監督賞を受賞した。大学や専門学校で映像制作論の非常勤講師を務める。

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