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【京都市下京区】江戸時代にタイムスリップ。もうひとつの花街「島原」

まーち京都コーディネーター/ライター(京都市)

京都コーディネーターのまーちです。
先日、JR嵯峨野線「丹波口」駅方面へ行った際に、かつて花街だった「島原」エリアを散策しました。

島原の正式地名は「西新屋敷(にししんやしき)」と言い、上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町の6つの町で構成されています。私は生まれも育ちも京都ですが、今回初めて島原の正式な地名を知り、「島原という名称と本来の地名が全く違うというのはかなり珍しいな」と感じました。

島原の花街としての歴史は古く、桃山時代に豊臣秀吉の許可を得て二条柳町で始まり、その後は六条三筋町へ移転。さらに寛永18年(1641年)に官命により現在の地へ移転しました。その移転騒動の様子が「あたかも島原の乱の如し」と流布され、「島原」と呼ばれるようになったそうです。(出典:公益財団法人角屋保存会)

島原大門は、慶応3年(1867)に建てられた。
島原大門は、慶応3年(1867)に建てられた。

島原大門には、由来とその歴史が書かれています。
島原大門には、由来とその歴史が書かれています。

かつては歌舞練場もあり、京都六花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、島原、宮川町)のひとつとして賑わっていました。が、徐々に寂れていき、昭和の終わりに島原のお茶屋組合が解散。花街としての営業は終了しましたが、街を歩くと花街の名残を感じることができます。

JR嵯峨野線「丹波口」駅から徒歩5分ほど歩くと、島原地区の西の端に到着します。島原住吉神社があり、そこから島原地区に入ると、かつて揚屋だった角屋(すみや)が見えてきます。

角屋
角屋

角屋の入り口には、説明書きがありました
角屋の入り口には、説明書きがありました

角屋はとても立派な建物!こちらは、寛永18年(1641年)に建てられており、国の重要文化財に指定されています。
江戸時代そのままの姿で残っているのは素晴らしいですね。揚屋(あげや)とは現在の料亭とのことで、毎夜こちらのお座敷で大夫さんや芸妓さんを呼んで楽しい宴席が行われていたのでしょう。新選組もこの角屋で宴会をしていたそうです。
なお、角屋は現在「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されていますが、冬の間は休館中とのこと。次の公開は来春3月15日からだそうですので、また開館中に揚屋の中を観にきたいと思います。

角屋前の道路。一般道ですので、車も走っていきます。
角屋前の道路。一般道ですので、車も走っていきます。

そのまま散策し、現在も置屋(おきや)として唯一営業を続ける輪違屋(わちがいや)へ。
こちらも江戸時代の建物ですが明治時代の改築を経て、現在は京都市指定有形文化財に。
置屋は太夫や芸妓が抱えて芸事やしきたりを教え、揚屋などの宴席に太夫たちを派遣します。
なお、太夫(たゆう)とは、花街の最高位の女性。歌や舞の芸事はもちろん、お茶やお花、和歌などあらゆる教養を身につけており、皇族や公家の宴席で舞や接待する役割を担っていたそうです。現在5名の太夫さんがいらっしゃるそうですが、「一見さんお断りの世界」ですので、直接お会いする機会は少ないかと思います。

輪違屋
輪違屋

2つの輪がデザインされています。
2つの輪がデザインされています。

私が子どもの頃に父と角屋の見学へ来た際に、当時の太夫道中を観たのですが、芸舞妓さんとは違い、禿(かむろ)を引き連れて歩く太夫さんの姿は鮮明に記憶に残っています。
なお、京都の寺社仏閣では太夫道中や太夫による舞の奉納をされる行事もあります。大人になった今だからこそ、改めて太夫道中など見てみたいなと思います。

島原大門の提灯
島原大門の提灯

今回は立ち寄れませんでしたが、島原にはオシャレなカフェが出来ていたり、旅館に併設された日帰り銭湯もあり、街歩きとしても楽しいエリアになっています。周辺は住宅街でもありますので、住民の方や車の通行などに注意して散策をお楽しみくださいね。
皆さんも一度、江戸時代にタイムスリップできる島原散策をされてみてはいかがでしょうか?

島原
京都市下京区西新屋敷
JR嵯峨野線「丹波口」駅徒歩5分
市バス「梅小路公園前」or「島原口」から徒歩10分程度

京都コーディネーター/ライター(京都市)

京都生まれ京都育ち。2014年より京都観光サイト運営を担当し、京都情報の発信を始めました。10年の東京生活を経て京都へUターン。現在は京都暮らしを満喫しつつ、「京都コーディネーター」として京都観光アドバイス、京都暮らしの始め方、京都新規出店アドバイスなどを行なっています。京都ならではのスポット、グルメ、伝統工芸、アート、自然など、京都の街の魅力を発信していきます。

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