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日本人はわずか31人! ボスニアで奮闘する日本語教師

奥村盛人映画監督

複雑な歴史を抱えながら多様な文化を育んできた東欧の小国、ボスニア・ヘルツェゴビナ。在留邦人わずか数十人というこの地で、ボスニア人に日本語を教えている女性がいる。サラエボ大学で教壇に立つ宮野谷希(32)だ。バルカン地域で日本語教師として奮闘する彼女の日常に密着した。

<サッカーと紛争と>
 ボスニアはかつてユーゴスラビアと呼ばれる国の一部だった。旧ユーゴはサッカーの強豪国で、現在でもサッカー日本代表監督を務めたオシムやハリルホジッチがボスニア人としては日本人になじみ深い。ボスニアでは古くから主に3つの民族(ボシュニャク系、セルビア系、クロアチア系)が共存。いずれも信じる宗教が違うが人種的には同じ人々とされ、旧ユーゴ時代は仲良く暮らしていたという。ところがスロベニアやクロアチアの独立によって旧ユーゴ紛争が勃発し、民族主義が高まる中、1992年にはボスニアにも紛争が飛び火した。およそ3年半の紛争中、3民族は互いに「民族浄化」に手を染め、約20万人の死者と約200万人の難民・国内避難民を生んだ。国際社会の介入で紛争は終結したが、今も国の中は民族ごとに分断されたままだ。

そんなボスニアの首都、サラエボで日本語を教えている若い女性がいる。しかも紛争には全く興味がなく、ただ日本語を教える事だけに情熱を注いでいるという。ボスニアに住む日本人はたったの31人(2017年10月現在)で、そこから大使館員と家族を除けばボスニアに住んでいる日本人は両手で数えられるほどしかいない。日本人が生きる場所としてはかなりハードルが高いように思える。しかも彼女はボスニアの隣国、セルビアでも3年間日本語を教えていたという。いったい何が彼女をバルカンに駆り立てているのか。

<日本語を極めたい>
 宮野谷は母の実家の富山県で生まれ、その後は東京で育った。父の仕事の関係で幼少期をニューヨークで過ごし、日本語と英語を使えるようになる。二つの言語に触れた事で日本語の品詞や文法に興味を持ち、文章を品詞分解して遊ぶという一風変わった子ども時代を過ごした。「日本語を極めたい」と東京外国語大学の外国語学部日本課程へ進学した後も、言語系の授業ばかりを受講する“言語オタク”な日々を過ごす。日本課程は日本人よりも留学生が多く、日本にいながらマイノリティとなる状況だったが、それを楽しめるしなやかさが宮野谷にはあった。彼らとの交流や学生時代に聞いた日本語教師の話などに背中を押され、外国人に日本語を教える知識を得るために東京外大の大学院へ進学する。

 大学院では日本語学校などで教える経験も積んだが、当時の宮野谷は日本語教師として働く自信がなかったという。そんな折、大学から修士課程修了後にセルビアのベオグラード大学で日本語講師として勤務しないかと打診があった。宮野谷は「自分が教師に向いているのかいないのか、取り敢えずやってみなければ分からない」と考えて日本を飛び出すことにした。ベオグラード大学では授業のほかに、学生たちとしばしば酒を飲んで本音を語り合った。大雪の日、大学当局から「授業なんて気にしなくていいから、安全を第一に考えて」と連絡があった。東京とは違う時間の流れと相手を思いやる気持ち。宮野谷は自分を抑えがちだった東京での生活よりも「ありのままの自分で暮らせた」セルビアに魅了され、当初2年の予定だった任期を1年延ばして教壇に立ち続けた。

<血と汗の臭い>
 ベオグラード大学の任期終了後、いったん日本に帰国した宮野谷だったが、バルカン地域への思いは断ち切れなかった。タイミング良くサラエボ大学の日本語講座に空席が出て、宮野谷はボスニア行きのチケットを手にすることに。サラエボではベオグラードで触れてこなかった紛争時代の傷跡が身近に存在した。授業中、紛争で父を亡くした生徒が父愛用の革ジャンに付いた血と汗の臭いについて涙ながらに語ったこともあった。一方で、ボスニアから切っても切り離せない紛争の過去や民族問題という現実はあるものの、敢えてそうした事実について学ぼうとしてこなかったという。「辛い現実を知った上で出てくるものもあれば、全く知らない人から出てくるものもあるのではないか」。そう取材中に話した宮野谷は、見えない何かに抗おうとしているようで印象的だった。

 取材期間中、紛争について興味を持っていた日本語講座の生徒とディスカッションの機会を持った宮野谷。紛争当時、両親が大学生だったというハンナ・シリャク(17)は「両親はセルビア系のアドバイスでドイツへ逃げたり、クロアチアの大学に通って難を逃れたりした。私が今ここにいられるのは3民族のおかげです」と語る一方、「でも今、セルビア系はいい人ですと言うと(サラエボでは)問題になります」と複雑な心境も吐露した。ハンナは直接紛争を知らない世代だが、当時、中学生だったアズラ・バルタ(38)は厳しい表情でこう言った。「今はまだコールド・ウォー(冷戦)です。セルビア系が全部悪いんじゃない。クロアチア系が全部悪いんじゃない。でも、これ(紛争や虐殺)は事実です」

 ボスニアには現在、ボシュニャク系とクロアチア系主体の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(BH連邦)」とセルビア系主体の「スルプスカ共和国」という2つの構成体が1つの国家内に存在している。さらにBH連邦の下にカントンという10の構成体があり、中央政府と合わせると13の政治機構が複雑な政治ゲームを繰り広げているのが現状だ。紛争後、BH連邦の中心であるサラエボからはセルビア系住民の姿が消えた。セルビア系住民が暮らすスルプスカ共和国の中心がボスニア第二の都市、バニャルカだ。宮野谷はバニャルカに住む旧知の研究者、スザナ・アトラギッチを訪ねた。スザナは日本で5年以上暮らして日本の大学で学んだ経験を持つ。「私と日本人は肌の色も文化も全く違うのに、みんなが本物の家族のように接してくれた。私たちが小さな国で3民族に分かれて無理矢理に差を探すのはおかしいと学生達に伝えているんです」。彼女は3人の幼い娘を育てる母でもある。スザナは「もう紛争は起こらないと信じています。だから今もボスニアに住んで娘たちを育てているんです」と力強く語った。

<日本語で世界を広げる>
 サラエボのアズラもバニャルカのスザナも本音を語っていたし、どちらも彼女たちにとって真実なのだろう。取材期間中に筆者が交流したサラエボとバニャルカの人々は皆、人懐っこくて思いやりに溢れていた。ひとりひとりを見るとわずか四半世紀前に悲惨な紛争が起きた場所だとは信じられないのだが、例えば街の片隅にある墓地で、例えば喧噪にまみれた夜のダンスクラブで、アズラが言う厳然とした事実が静かにこちらを見つめているようでもあった。サラエボではセルビア系により多くのボスニャク系が殺され、当時を知る世代には癒やせない傷跡が確かに今も残っている。それでも「これからの若い世代は違う時代をつくるかもしれない」と語ったアズラの言葉が現実になれと願わずにいられない。取材当初は紛争を学ぶことに否定的だった宮野谷だが、ボスニアの人々との交流から新たな思いも生まれたようだ。「私が日本語を教える事でボスニア人に新たな視点を与えられる。日本語を通して彼らの世界を広げ、結果として平和な社会が続けばいい」。かみ締めるように語って前を向いた。

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援で制作されました】

注:この記事は、18才から34才のミレニアル世代を対象としたヨーロッパ公共放送発のデジタルプロジェクト・ウェブアンケート「Generation What?」との連動企画です。参考)Generation What? 「なにジェネ?」https://jp.generation-what.org/ja/

クレジット

監督・撮影・編集 奥村盛人
プロデューサー  一原知之

映画監督

1978年岡山県生まれ。2001年から高知新聞社で8年間記者生活を送る。新聞社を退社して映画美学校で映画制作の基礎を学ぶ傍ら、35ミリフィルム撮影の現場も経験。初監督作「月の下まで」(監督・脚本)がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭などにノミネートされ、2013年から全国で劇場公開される。2016年から早稲田大学ジャーナリズム研究所に所属し、ドキュメンタリー映画「魚影の夢」(劇場未公開)を監督・撮影。2017年から拠点をヨーロッパに移し創作活動を続けている。2013年から高知県観光特使。

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