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世界最高峰のボリショイ劇場 舞台裏で躍動する日本人元バレリーナ

奥村盛人映画監督

240年以上の歴史を持ち、世界のバレエファンが憧れるボリショイ劇場を日本語で案内する日本人がいる。15歳でロシアへ渡り、ボリショイバレエアカデミーで学んだ元バレリーナの山本萌生(36)だ。彼女はなぜモスクワで劇場案内人を務めているのか。彼女の波瀾万丈な人生に密着した。

<90年代 混沌のモスクワ>
 およそ1250万人を擁するロシア経済の中心地モスクワ。有名な赤の広場には世界中から観光客が訪れ、現在は便利で安全な街だ。しかし、1991年のソビエト連邦崩壊直後は「路上に死体がよく放置されていた(現地住民談)」と言うほど混沌とした場所だったという。そんな90年代に山本は日本から単身モスクワにバレエ留学した。

 山本は両親の実家がある福井で生まれ、幼少期を大阪で過ごした。当時、仲の良かった友人がバレエを習っており、小学1年時にボリショイバレエアカデミーの大阪公演を鑑賞。その美しさに圧倒され「バレエは外国人のための踊りなんだ」と強烈な印象を受けた。両親が国体選手というスポーツ一家に育ったが、山本は小さい頃から音楽に合わせて踊るのが大好きな子どもで、小学3年からバレエを習いはじめる。

 日本のバレエ学習者は推計約36万人(「日本のバレエ教育環境の実態分析」より)に達し、世界トップクラスのバレエ人口とされる。ところが日本ではプロのバレエダンサーが生計を立てるのは難しく、大半のダンサーはアルバイトをしながら踊っているという。「習い事」としては確立しているが「職業」としての展望が描きづらいのが日本バレエ界の実態。そんなことはつゆ知らず山本はバレエにのめり込んでいき、両親は彼女の努力を静かに見守った。小学校高学年の頃には親や友人に「中学を卒業したら海外でバレエを学ぶ」と宣言。生まれ持った柔軟性と負けん気の強さを発揮し、地元のバレエスクールで頭角を現した山本は運命的な出会いを迎える。

<15歳で単身ロシアへ>
 父の仕事の関係で中学1年時に福井市へ転校した。中学3年の春、所属していたフクイバレエ団とロシアのバレエ団が共同で踊るイベントのパーティ会場でのこと。バレエ団代表が山本の手を引き、ロシア側のバレエ団総監督に「この子は外国でバレエを習いたいんです。何とかなりませんか」と直談判。突然のことに山本は驚き、ロシア人総監督も苦笑い。一度は「またこういう機会に習えばいいでしょう」と断られたのだが、翌日、山本の練習を見た総監督がロシアのバレエ学校への推薦状を書いてくれた。数ヶ月後、東京で行われたボリショイバレエアカデミーの試験を通り、15歳でロシアへ向かうことになった。

 意気揚々とモスクワ入りした山本だったが、留学初日に大きな“挫折”を味わう。レッスン場にいたのは自分よりも手足が長く、顔の小さな同級生たち。誰もが山本よりも高く足を上げ、動きも洗練されていた。バレエ団の中心として日本で培った自信は一瞬にして崩れ落ちる。「やっぱりバレエは外国人のものだったんだ」。そこにいたのはボリショイに圧倒された小学生時代と同じ自分だった。レッスンに付いていくのが精一杯で、教師からは連日厳しい言葉を投げられた。それでも「自分で決めた道だから逃げられない」と、歯を食いしばって日々を過ごした。

 留学2年目の冬。レッスン中、得意だったジャンプの着地に失敗し左足を捻挫してしまう。翌日も腫れが引かず医務室で1週間の休養を言い渡されたが、クラスの担任は「どうせずる休みをしたいんでしょう」と山本を突き放した。「私の普段の態度が悪かったからでしょうけど悔しくて」。1週間は休んだものの、腫れが引かないまま練習を続けた。ある日のレッスン終わり、アドレナリンが切れたのか突然階段を上れなくなる。足が全く動かない。診断の結果、左足の靱帯が断裂していた。それをかばって踊り続けたため、左足の腱も切れて親指が曲がらない状態に。さらに負担が掛かった右足の腱も半分以上切れかけていた。山本は帰国した日本の病院で両足を手術。長いリハビリ生活に入る。

 手術後のリハビリ中、アカデミーの同級生から日本に手紙が届いた。「試験が無事に終わったよ」という他愛ない内容だったが、胸に迫るものがあった。自分がどれほど恵まれた環境にいたのか。どうして文句ばかりで心を閉ざしてきたのか。手紙を読んで憑き物が落ちたように心が晴れ渡り、一心不乱にリハビリに取り組んだ。怪我から8ヶ月後、アカデミーに戻ると1学年下に留年とはなったが、それまでとは全く違う気持ちでバレエと向き合うことができた。足の痛みは消えず毎日氷水で足を冷やしながら、19歳でアカデミーを卒業。日本に帰国し熊川哲也氏が設立したKバレエカンパニーに所属することとなる。

<23歳で引退 大学生に>
 夢だったプロのバレリーナにはなれたものの、中心で踊るソリストではなく大人数で踊る群舞の1人。思うように踊れない時期もあり悩みは尽きなかった。在籍3年目に出演した舞台「ドン・キホーテ」の公演中、突然「楽しい」という感情がこみ上げてきた。あくまでも純粋に踊ることが楽しいという感覚。そこには「何が何でも主役として踊りたい」という強い気持ちはなく、舞台上で引退を決意した。

 30代から40代で引退するダンサーが多い中、異例の若さで引退した山本。ダンサーから教える立場へという“既定路線”を歩むのではなく、まずは大学へ行って社会を見てみようと考えた。日本では義務教育しか受けていなかったが、半年でいわゆる大検に合格。さすがに受験1年目は全敗だったものの、翌年の入試で同志社大学文学部に合格。25歳で大学生になった。就職活動では一般企業を受け続ける。特異な経歴から面接は盛り上がっても採用してくれる企業はゼロ。そして再びモスクワへ向かう。ゼミの担当教官から「経歴を生かしてバレエの研究者にでもなったらどうか」と勧められ、ロシアで大学院に通おうと思ったからだった。通学資金を稼ぐためモスクワで職探しに奔走。日本の商社に秘書として採用されることになる。

<3度目のボリショイ>
 そして迎えた30代。同じ時期、ボリショイ劇場が6年間の修復工事を終えリニューアルオープンすることに。アカデミー時代の同級生から「日本人はボリショイ劇場のバックステージに興味あるかな」と質問された山本。「興味あると思うよ」と答えると「じゃあ、あなたツアーガイドをやってくれない?」と持ち掛けられた。悩みつつも再びバレエと関わり日本人にバレエの「種を撒く」ことができると考え、商社を1年で退職。2012年からボリショイ劇場のバックステージツアーガイドを続けている。

 ボリショイ劇場のエカテリーナ・チュラコーバ美術館主任は「私を含めバレエの経験がない者は文献や伝聞からしか知識を得られないが、彼女は経験を踏まえた深い話ができる」と高く評価。ロシア語以外の言語で劇場を案内できるのは山本ただ1人で、元バレリーナが劇場を案内するのも「過去にも聞いたことがない」(劇場関係者)という。

<旧友との邂逅>
 今回の取材中、アカデミー時代の同級生で、ロシアでバレリーナとして活躍したアレクサンドラ・ティマフェーバと偶然再会した山本。その様子はぜひ動画でご覧頂きたいのだが、後日アレクサンドラは「若い時は自分の気持ちに素直に行動する事が出来た。(2人とも年齢を重ねた今だからこそ)自分の気持ちに正直に行動していかないとね」と山本に語りかけた。表舞台に立ち続けることだけが正解ではなく、自分の心と向き合い選択した人生こそが正解なのだと、エールを送っているようだった。

 バレエに憧れながらもロシアで、日本で、挫折を繰り返した山本。それでも今、モスクワで違う角度からバレエと向き合う日々を過ごしている。「ある友人が『あなたにとってロシアのバレエは初恋の人なんだね』と言ってくれて。私の初恋は叶わなかったからこそ、これまでも、そしてこれからも自分の中にあるものなのかもしれません」。かつてきらびやかな舞台を夢見たバレリーナは、今日も笑顔で舞台裏を案内している。

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援で制作されました】

クレジット

監督・撮影・編集 奥村盛人
プロデューサー  一原知之

映画監督

1978年岡山県生まれ。2001年から高知新聞社で8年間記者生活を送る。新聞社を退社して映画美学校で映画制作の基礎を学ぶ傍ら、35ミリフィルム撮影の現場も経験。初監督作「月の下まで」(監督・脚本)がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭などにノミネートされ、2013年から全国で劇場公開される。2016年から早稲田大学ジャーナリズム研究所に所属し、ドキュメンタリー映画「魚影の夢」(劇場未公開)を監督・撮影。2017年から拠点をヨーロッパに移し創作活動を続けている。2013年から高知県観光特使。

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